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山北オフ 阿賀北同盟 仮事務室

阿賀北同盟第一回オフ会 「山北オフ」概要

山北オフ 地図

実施日:2004.06.04
参加者:雨順斎・Kita・Shin
見学地:堀切峠(戊辰戦争塹壕跡)、小国城跡、光慶寺、黒子夫妻の供養塔、越沢城跡

阿賀北同盟結成の記念すべき第一回オフ会は雨順斎殿の一声で決定。ワタナベ殿には申し訳無いと思いつつ、新潟の北端、山北町周辺の史跡巡りとなりました。
(執筆者:shin)

集合!(9:00)

午前9時、山北町府屋某所集合。私が到着すると二人は既に集合し、何やら話しをしている様子。時計を見ると8時58分。危ない危ない、自分で時間を決めておきながら遅参する所でした。

本日の予定を確認すると、初めに堀切峠で戊辰戦争時の塹壕を見学、そのまま峠を越えて山形に入り小国城(以下温海町)、木野俣の光慶寺、越沢の黒子夫妻の供養塔を訪ねるというものです。その後、時間があれば更に周辺の山城の探索を加えます。

山北オフ 集合地点

まずは府屋から県道52号線を経由して堀切峠を目指しました。幕末の戊辰戦争時、峠の尾根には庄内・村上藩の同盟軍が新政府軍を迎え撃つ為に塹壕を築きました。この塹壕跡を確認した私が埋もれてしまう前にと、半ば無理矢理二人を引き連れて本日案内しました。

尾根に通じる作業道前でKita殿の愛馬とともに記念撮影。実はKita殿と私、ウエストバッグと腕時計が同じでした。これは奇遇ですな。ところで一名居ませんよ~。

塹壕跡(午前9:20~9:40)

山北オフ 塹壕跡

尾根に連なる塹壕跡… 庄内・村上藩は戦力優勢な新政府軍に対して一歩も退かず、降伏の時までこの峠を守り切りました。この地で命を散らした者もいるだろう…無念か? いや武士の本懐か? やはり生き延びたかったのではないだろうか… 塹壕の中でちょっとばかりセンチになった私を、雨順斎殿のカメラは見逃さなかった!?

小国城登城口へ!(10:00)

山北オフ 小国城登城口

堀切峠を後にして山形県温海町小国に入りました。目指すは集落の南西に屹立する盾山の天嶮に築かれた小国城です。城の築城や変遷については明確ではありませんが、南北朝時代には既に小国氏の居城として存在していたようです。本道を海岸沿いの国道7号線に譲るまで、この地は越後と庄内を繋ぐ要衝でした。

阿賀北に関係の深い出来事だと、庄内で最上義光・東禅寺筑前守の共謀で敗れ自刃した武藤義興の養子、義勝が「揚北の雄」にして村上城主だった本庄繁長の実子でした。義勝は小国城主の小国彦次郎によってかくまわれ、翌年、繁長とともに庄内へ進攻すると、十五里ヶ原の合戦において東禅寺軍を破り庄内奪還を果たしました。城跡は2003年に国指定史跡になり、案内板・登山道が整備されて訪れる人を中世へと誘います。

個人的に今日のメインと思っている小国城。ここでも記念撮影…また一人足りない。ごめんなさい雨順斎殿、私が三脚を忘れずさえいればこんな事には…。

小国城へ突入!(10:00~11:30)

山北オフ 小国城スナップ1山北オフ 小国城スナップ2山北オフ 小国城スナップ3

この城、私とKita殿は初めてなのですが、実は雨順斎殿は攻略済みとの事。ならば先陣はお任せしなくてはなるまい。笑顔で振り向く雨順斎殿は余裕の表情です。

山腹を一登りすると駒立て場と呼ばれる曲輪に出ます。何でもこの場所まで牛で荷物を運んだとか…あの坂を牛が登って来るのは想像できませんな。

ここからまた少し登った所に三の丸、そして二の丸、本丸と続きます。地形上の制約からなのかその造りはシンプルで、道は三の丸・二の丸に入らず、かすめる程度で本丸に繋がっています。

「本丸・二の丸・三の丸を隔てる高低差のある切岸は見事でした。なんだか村上城の石垣が積まれる前、本庄城時代はこんな感じだったのではと思わせるものがありました。特に本丸では切岸の下に曲輪がぐるり廻っていて、そこから見上げた本丸は村上城の本丸にソックリのように思いました。」(Kita殿 談)

なるほどそういう見方もあるのか…確かに本丸の土塁の裾を通って脇の虎口から入る道なんかも同じですね。

険しい表情で三の丸へ登って来る雨順斎殿…?あれ…雨順斎殿、先陣はどうなされた!? シンガリはソレガシに任せて…と言ったかどうか…。

山北オフ 小国城スナップ4 三の丸付近の木には真新しい熊の爪跡がありました。このキズを付けた張本人に遭う事の無い様に祈るばかり。

山北オフ 小国城スナップ5 物見にて敵の布陣を確認? 石を投げて遊んでるようにも見えますが…?

山北オフ 小国城スナップ6 土塁に囲まれた本丸内の状況。冬前に訪れた雨順斎殿の時より草が多く、地形は確認しにくくなりました。もう少し後に村の人達の手により草刈りが行なわれると知ったのは、下山してからの事でした。

光慶寺~謎が謎を呼ぶ黒子槍!(11:45~11:50)

小国城を攻略した一行が次に向かったのは黒子槍が隠されているという光慶寺です。黒子の伝説については次の通り。

山北オフ 光慶寺
山北オフ 供養碑

天正十六年秋、本庄繁長・武藤義勝父子は上杉景勝の後援をうけて数千の兵を率い葡萄峠を越えて出羽に侵入した。
本庄繁長の軍勢が木野俣付近を通過中の事である。越沢村の一人が繁長を狙撃するという事件がおこった。幸い弾丸は繁長に当たらず事なきを得たが、犯人の詮議が厳しく越沢村に早急に犯人を出すよう厳命があった。越沢村では犯人の目星はあるのだが、その人を出すと村を壊すことになるので謀議の結果、近年夫婦者で村に住みつている男を出そうという事になり、ひそかに男をおびき出し、その首を差し出しだ。男の名を金十郎といった。
何日たっても帰らない夫を不審に思った妻は、遂に謀殺されている事を知って訴え出ようとしたので、この女をも殺そうと考えた。友人の女に、みずとりと称して山中に誘い出させ、待ち構えていた若者が槍で女を殺した。女の名が黒子だったので、殺した場所を黒子沢と呼ぶようになった。
これで一件落着かと思えたが、その後村には災難が絶えないので黒子の怨みであろうと供養碑を建てた。
<山形県歴史の道調査報告書より>

黒子を突き殺した槍が黒子槍としてこの寺に伝わっているそうです。
呼べども居ない和尚さま。
寺を覗き込む挙動不審な三人組。
謎が謎を呼ぶ黒子伝説。果たして、その目に黒子槍を映す日は来るのか…?
同じく黒子伝説の供養碑ですが、こちらは越沢竜雲寺でやはり無人寺です。槍が伝わっているのが隣村なのはなぜでしょう?

LUNCH TIME(午後12時)

ここまでで午前の部は終了し昼食にしました。こんな山奥にめし屋なんかあるのかと思いきや、これがあるんです。しかもこの時は満席。しばらく待って席に着きメニューを見ると見慣れないものが…

これを頼んだのは…やっぱりやってくれました雨順斎殿! 注文の品が来るまで午後の部について話し合いです。雨順斎殿が用意してくれた温海町の資料には登り甲斐のありそうな山城が沢山載っているのですが、何分この時期にその地形が判断できるかどうか…。 Kita殿は藪こぐ気満々どこでもござれの様子。雨順斎殿は地形が見えなくてはつまらないのでは、と確かにごもっとも。

そこで出てきたのが越沢城でした。越沢と言っても先程の黒子供養碑の越沢ではなく、山北町の越沢です。この村では城山の里を銘打って大きな看板を建てており、整備された遺構が期待できるからです。

意見は一致、食事を終えた一行は山北町越沢へ向かいました。

越沢城へGO!(14:20~16:10)

山北オフ 越沢城1
山北オフ 越沢城2山北オフ 越沢城3

越沢城の由来ついては、実はほとんど分かっていません。慶長二年(1597)の越後国絵図にも記載は無く、もっと古いものとの事です。鮎川氏が大川氏に備えて築城したものだという説もありますが、 Kita殿と雨順斎殿はそれは違うという意見で一致したようです。麓の集落には矢留沢や根小屋といった城にちなんだ地名が残ります。写真は城山の全景。一番左に見える小山、天王山を経由して尾根伝いに頂上を目指します。

申し上げます! 雨順斎殿、天王山にて討ち死になされました~!

天王山には大正初期まで伊須流岐神社と八坂神社が祭られており、現在その二つは麓の大里神社に合社されています。雨順斎殿がおられる場所がその跡の一つで、地面には礎石と思われる石が散在します。

この先から頂上まで道は険しくなり、垂直に思えるような尾根を延々と登らなくてはいけません。道の整備具合はほどほどで、そう古くもない標柱が残りの距離を100m毎に教えてくれます。しかし眺望の為に切り開かれた筈が、逆に陽を受けて腰高ほどの藪を作っているような所もありました。途中、尾根上に防衛施設と思われるような遺構は無く(要らない?)、頂上手前でようやく小さな土塁が現れます。

Kita殿と励まし合い辿りついた越沢城頂上の広場。単独ならば突入に二の足を踏むような藪です。ここを中心に周辺には小規模な帯曲輪が何段か取り巻いているようです。お前の主は誰だったのだ…?

これにて解散

城山を降りて天王山で雨順斎殿と合流。景色も良く、爽やかな風が吹き抜けるこの地でしばらく休憩した後、天王山を降りて麓で解散しました。 こうして阿賀北第一回オフ会は好天に恵まれ、無事に終了したのであります。

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