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駒込町跡

駒込町跡
村上城 駒込町跡 写真

■DATA

残存物:地割?
残存度:-
藪化度:-

松平氏時代に新規に町立て

現在の村上駅前一帯は、戦後、南線道路が整備されるまで茶畑や荒地となっていた。しかし、村上藩が15万石の最盛期を迎えていた松平氏~本多氏の時代(1663~1709)には、駒込町と称した武家地となっており、100石取り前後を中心とする中下級藩士の屋敷が立ち並んでいた。

城下町建設当初、村上城下は10万石規模を持って設計された。そのため、5万石の加増によって増えた家臣団の屋敷地を、新たに確保せねばならなかったのである。

当時の城下町絵図から推定される駒込町の範囲は、現在の田端町~山居町の一部を含む広大なものである(右図参照)。街区西側には、規模は判然としないものの、土塁と堀が巡らされていたようだ。街区は整然たるグリッド状を成し、まさに新興住宅地といった趣である。このあたりは、微地形に沿って街路を設定した、江戸初期の町割りとの設計思想の差を感じさせる。

村上城下・駒米町の範囲図

■駒込町の範囲(推定)

1704年(宝永元年)の「村上城並府内図」から推定した駒込町の領域を朱色で示した。桜ケ丘高校から村上高校裏手に及ぶ範囲と推定される。

地割の一部が残存か?

さて、このように折角整備された駒込町だが、本多家が世継断絶により5万石に減封されると、住む人もいなくなってしまう。続く松平家の時代には町人に払い下げ(実態としては限りなく藩による押し売りっぽい)られ、茶畑などに転用されていった。その後、昭和の高度成長期の駅前開発で大規模な区画整理が再度行われ、現在に至る。

そうした経緯もあって、現在、当時の痕跡を感じられるものは皆無に近い。ただし、現在の妙に直線的な街路の一部は、高度成長期の駅前開発に伴うものではなく、江戸中期当時の地割りを引きずっているようである。1948年に米軍が撮影した航空写真には、広大な茶畑をグリッド状に区画する直線道路が確認できる。

(初稿:2007.08.19/2稿:2017.07.23)

1948年の村上城下・駒込町跡を映した航空写真

■道路痕跡?

米軍が撮影した航空写真。茶畑をグリッド状に区切るかつての地割痕跡が確認できる。現在の田端町の街路の一部は、これを踏襲したもののようだ。(出展:国土地理院ウェブサイト「地図・空中写真閲覧地図」より1948/03/19 米軍撮影写真)