ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
トップ 作事小屋

小薬邸とは何だったのか?

城郭建築の生き残りだった?

小薬邸は山辺里門跡にほど近い、三之町地内に2006年4月まで残存していた武家屋敷である。内藤氏時代の分限帳によると、小薬家は15人扶持の中小姓で、藩の弓の師範を務める家柄であった。解体時まで子孫の方が所有しており、右の写真のように茅葺屋根の伝統的な作りが保全された、なかなかいい感じの建物であった。

10年以上前の古い話を引っ張り出してきたのは訳がある。実は、この邸宅には「前身は城の番所(いわゆる見張り小屋)であった」という伝承があったのである。これが事実であったとすれば、わずか10年ほど前まで、村上城に関連する建造物が地元に残っていたことになる。

番所説vs.柔道場移築説

「番所転用建物」説の根拠は、同家を所有していた小薬家の伝承による。委細ははっきりしないのだが、江戸末期に同家の旧宅が火災に遭った際、藩は財政窮乏のために新たな屋敷を支給できず、かわりに番所として建築中だった現在の建物を与えたという。1993年に行われた公的な内部調査でも、通常の武家屋敷とは異なるつくりの建物であることが指摘されているし、2006年に筆者が内見した時点でも、場所によって天井高が異なるなど、かなり変則的な形状の建物であったことは確かである。仮に「番所転用建物」という伝承が真実だったとすれば、至近距離にある山辺里門に付随する番所を転用したと考えるのが妥当であろう。

一方、1991年に村上市がまとめた「越後村上城下町:伝統的建造物群保存対策調査報告書」では、もう一つの説として「柔道場移築説」も挙げている。右に示したのは、明治元年の小薬家付近の様子と現在の地図を比較したものである。「南蛮流稽古場」の建物が描かれているあたりに、まさに小薬家が位置していることがわかる。

正確なサイズを絵図から伺うことは出来ないが、付近に描かれた山辺里門(2間2尺×4間)の大きさ等から推定すると、2間半×5間程度の建物と見て大きくは外れないだろう。残存していた当時の小薬邸の母屋部は、おおむね同程度の大きさであった。

解体が決まる(06.03.11)

村上城唯一の建築遺構である可能性を秘めていた小薬邸。本来ならば、本格的な解体調査をすべきだったと思うのだが、06年3月に民間介護施設の駐車場用地として土地が取得されることとなり、取り壊しが決定した。

「なんとかならないものか…」と思案していたその矢先、なんと家主の親族の方からメールを頂き、ご好意で建物の内部を見学させていただけることになった。建物の軸組みや、近年の改築箇所などを間近に見ることができたが、母屋部には江戸時代の部材がかなり残っていたようである。また、素人の印象ではあるが、全体的な天井高の低さが気にかかった。前身建物の一説として「柔道場説」があることは既に述べたが、この天井高は道場として低すぎるように思われたからである。もともと土間であったものに床を張ったのか、あるいは住宅として改造する際に天井を張ったのか、いくつか考えられる点はあったのだが、そこを確認するためには解体調査をするしかなかったであろう。

勿論、市のほうでもこの建物の文化的価値は把握しており「藩の施設を住宅に改造したものとすれば、そのような施設が何も残っていない村上にとっては注目される建物である。今後も継続調査を進めたい」(「越後村上城下町:伝統的建造物群保存対策調査報告書」P.72)との認識であり、「いざ解体する際には連絡が欲しい」と、以前から家主に要請していたそうである。ところが、実際に解体する段になって「予算不足で買い取り不能」と、なってしまったそうだ。自治体の財政的な体力はこのへんにも効いてくる。

このまま個人レベルで動いていても埒が明かないので、「越後村上城下町町並みの会」に事情を伝え、団体を通して市役所と折衝してもらえるように要請したが、それも3月末の時点で不発に終わってしまった。

公的調査は実施されずに解体(06.04.10)

こうなった以上、あとは個人でやれることをやるしかない。ツテを頼りに古建築に詳しい某大工さんに連絡をとり、なんとか簡易調査を行っていただけることになった。解体直前の4月3日、建築年代を特定すべく屋根裏を中心に調査してくださったのだが、結局、「棟札がない」という以外は、新たな事実は発見できなかったそうである。部材の経年劣化が激しかったため、年号を記した落書き等も、残念ながら見つけることができなかった。

2006年4月10日。八方手を尽くしたのも空しく、小薬邸は解体されてしまった。せめてもの救いは解体時に刀剣5本が発見され、家主の方が引き取って下さったことである。5本中2本には銘があり、それぞれ「濃州関住藤原金行 貞享五年二月吉日 於越州村上作之」「大和大掾 藤原正則」と打ってあったとのことである。刀剣類に詳しくないので、残念ながらどの程度のものなのか筆者にはわからない…。

この手の話は、なにも今にはじまったことではなく、その間に失われた伝統的建造物は1棟や2棟ではない。1990年代初頭の時点では、武家屋敷は20棟程度は残存していた。また、このサイトを立ち上げた2003年時点でも、10数棟は確認がとれていた。ところが現在、現存する武家屋敷は半数程度となり、しかもそのほとんどは市の文化財として移築保存されたものである。文化行政の難しさを強く感じる昨今である。

(初版:2018.11.12)

※本記事は当初「遺構概況」のコーナーに掲載していたものです。その後「遺構」と見做した小薬邸が解体されるにおよび削除していましたが、現状に合わせてリライトの上、再掲載します。