ビジュアル再現村上城 > 阿賀北同盟仮事務室 > 繁長オフ
実施日:2005.01.03
参加者:雨順斎・ウモ・Shin・ワタナベ
見学地:関根城・尾浦城・十五里ヶ原古戦場・鶴ケ岡城
新年早々行われたオフ会は、中世阿賀北を語る上で忘れてはいけないこの人、本庄繁長の庄内攻めの足跡をたどるツアーとなりました。本庄繁長はご存知の通り戦国時代末期の村上城城主で、天正16年に庄内に進攻すると十五里ヶ原で最上勢を破り、この地方を勢力下においた人物です。
(執筆者:Shin)
朝8時半、村上市某所で会した一行は、またしても華の無い野郎四人。しかしそんな事はお構いなし、我らの道を行くのみ。スキー場へ向かうファミリーやら、カップルの車を横目に見ると、阿賀北のテーマ(暴れん坊将軍のテーマ・ユーロミックス…)にのせて最初の目的地である山形県温海町にある関根城跡へ走りました。
今日の見学予定地は、まずこれから向かう十五里ヶ原の前哨戦が行われた関根城とその周辺の山城、続いて本庄軍に落とされた最上方の迎撃の要尾浦城、決戦の地である十五里ヶ原、近世城郭の鶴ケ岡城となっています。
関根城は最上方の前線基地で、尾浦城から二里強程越後よりに位置する街道沿いの要所でした。最上方は義光の腹心、中山玄蕃を守将に入れてここを守ろうとしましたが、戦術巧みな繁長の前にあえなく陥落しました。
途中の車内では窓に映る山の地形を眺めながら、ウモ殿を中心に山城トークが炸裂。この時期は麓からでも稜線がはっきりと見え、雪さえ無ければ絶好の山城シーズンなのです…そう、雪さえ無ければ…。
村上では数センチ程度の積雪も北上すると共に増し、温海から山へ入って行くと道路脇の雪は1メートル程に。そして麓の関根集落に着いた頃には、やはりというか当然の如く一面の雪に覆われていました。目指す関根城は村の背後に構える山上に築かれています。しかし、ここで引き下がっては阿賀北勢の名折れとばかりに勇んで突撃。先陣は…きました雨順斎殿!実はこの方、大の繁長びいき。このハンドルネームも繁長公の隠居後の雅号より頂いているのです。
林道を少し登り右に居館跡らしい平地を見ながら前進し、尾根の取り付きまで来た一行でしたが、この先はさらにハードな道無き道が予想されます。長靴にも上限を超えて少しずつ雪が入ってきてるし、ここで時間を取りすぎてもこの後の予定に差し支える、という事で…退却じゃ~。
皆様申し訳ない。読みが甘かったです。正月から山城は無謀でした。 当初はこの後、近くの田川城などもコースに入っていたのですが、こちらも積雪により断念しました。
気を取り直して次の目的地は尾浦城(大浦城とも)。ここは庄内の国人領主武藤氏が大宝寺(鶴ヶ岡)城より移った城で、加茂山系から大山の町に向かって東に伸びる舌状台地に築かれたものです。十五里ヶ原戦の時には最上勢が守備していましたが、繁長の陽動作戦にまんまとひっかかって奪われたそうです。
また、十五里ヶ原の戦い以前にも二度落城していて、どちらも城主の武藤氏が自害していたり、上杉領となった後も一揆勢に取り囲まれて落城寸前に景勝の援軍に救われたり、その後の出羽合戦など結構血生臭い城です。
麓の駐車場に車を停めて、大きな鳥居の建つ登り口から攻め込みます。城跡は公園化され、この時期でも楽に訪れる事ができますが、それが逆に仇となり遺構の状況は非常に判断しにくくなっています。帯曲輪状に伸びた車道や神社の削平地には、さすがの城オタ軍団も判断に困りましたぞ。麓から見た印象ではそうでも無いのですが、意外と奥まで続く複雑な地形となっている様です。しかし短期間に二度三度落城してるって事は、実は防御力低いのかも?
城跡のほとんどは神社の境内となっています。参道に沿って伸びるのは土塁の痕跡か??
神社裏手に残る小さな土塁を攻めるウモ殿。歴戦のウモ殿にはいささか物足りない?
この城で一番大きいと思われる堀切には橋が架けられ曲輪同士を連絡していますが、これは当時の復元では無さそうです。
次の目的地はすぐ近くの十五里ヶ原古戦場です。
さっき見た尾浦城で敗れた最上方の将、東善寺筑前守は、本隊を尾浦城の半里東であるこの十五里ヶ原の原野に構えて本庄軍に決戦を挑みました。千安・湯尻・八沢の三筋の川が造る天然の要害に布陣した最上勢に対して繁長は、一隊を敵の正面に構えさせ、本隊は闇夜に紛れてその背後に回り込ませると挟撃して敵を粉砕しました。またこの時、最上方の後方基地である大宝寺城にも備えて兵を配置するなど周到さを見せています。戦略的な事には何かと?な評価も多い繁長公ですが、局地的な戦術には素晴らしい手腕を発揮しています。
現在の十五里ヶ原は、国道が通って両脇には一面の水田が広がります。わずかに入った所に東善寺右馬頭と討死した将士のものと伝わる首塚が残り、何とも言い難い雰囲気を放っています。もはや何かも判断できない様な石が並べてあったり、十五里ヶ原の戦をリアルに感じる場所です。びびり屋の私は正面きって写真は撮れませんでした。たぶんワタナベ殿も…。
ところで村上の郷土資料館には繁長の兜が展示されていますが、この兜の傷にまつわる逸話がこの戦いの中に残されています。
陽が中天にかかる頃、東善寺右馬頭は兄の東善寺筑前守を討たれ、また多くの死傷者を出して敗戦確実な状況を悟ります。せめて繁長と刺違えようと首実検を装い敵陣に潜り込み繁長に刀を振り下ろしますが、兜によって受け止められてしまい逆に討取られたという話です。この時、右馬頭が打ち付けた刀は正宗の名刀で、戦利品として繁長が所有したそうですが、後に金に困って豊臣秀次に売り渡すあたりがまた繁長らしいような気もします。
最後に向かった先は鶴ヶ岡城です。
元々は大宝寺城と呼ばれる武藤氏の居城でしたが、戦国末期に前述の尾浦城に本城を移すと支城の役割をしていたようです。
戦国の世が終わり、近世になると、酒井氏が再び本城として取り立て、庄内藩の支配拠点として城や城下町の整備に努めました。酒井氏は12代・250年間を統治して明治維新を迎えました。鶴岡市の中心地にあり、現在は市民の憩う公園で本丸跡には定番の神社が祭られています。さすがに正月早々とあって神社には初詣の人であふれ、参堂には露店が並んでいます。この時期に純粋に城を見に来る集団も珍しかろう…。
市街地で公園化しているとあって遺構の残り具合はそれなりですが、二重の水堀と土塁が往時をしのばせます。石垣はほとんど使われていませんが、素朴で悪く無いと思います。平城は雪景色も絵になりますね。各々土塁に登って縄張りを読んだり、ベストショットを探したり、ワタナベ殿に雪球ぶつけようとしたり?
鶴ヶ岡城の後、市内のファミレスで遅めの昼食をとると帰国の途に着く阿賀北衆でした。今回のオフ会では積雪の為にメインの関根城や田川城などが見学できず歯痒い思いをしましたが、次回からのオフ会はこの失敗を踏まえて計画していこうと思います。忙しい予定の中参加した皆様、お疲れ様でした。次回もまた、阿賀北の山野で会いましょう!
※十五里ヶ原の合戦については諸説あるようですが、ここでは主に村上市史を参考にしました。