ビジュアル再現村上城 > 阿賀北同盟仮事務室 > 第二次 繁長オフ
実施日:2005.04.30
参加者:雨順斎・kita・Shin
見学地:小名部城・関川館・関根城・藤沢館
正月に行われた第一次繁長オフ。関根城においての無念の敗走から早いもので五ヶ月が経ちました。あの日から夢に出るのは彼方に見える関根城の峰ばかり…。雪辱を胸に、今回のオフは第二次繁長オフとして再びこの城の攻略をメインとしました。
(執筆者:Shin)
某道の駅で合流した一行は、私と雨順斎殿が阿賀北号に乗り込み、その後をKita殿が単騎バイクで追いかけて北へと向かいました。概要に書いた通り、今回の参加は雨順斎殿・KITA殿・私(Shin)の三人です。記憶を遡ると第一回のオフ会が去年の6月に行われ、その時のメンバーがこの三人でした。約一周年で再びこの面子が揃うとういうのも何かの縁でしょうか。そういえば天気に恵まれたのも一年前と一緒。そんな事書くと今回居ないメンバーに雨男が居るみたいだな…。
さて今日の予定ですが、国境の砦であった小名部、関川の城跡をチョチョイと攻略した後、関根城へ。まだ時間が余ると思うので、更に湯田川温泉近くの藤沢館を攻めるといった山城づくしのコースです。
国道七号線を北へ向かい、途中の細い県道に入ると第一回のオフで立ち寄った堀切峠を越えます。この峠を越えて山形に入り、初めの集落が小名部です。言うまでも無く国境の要所となり、そこには敵の侵入に備えた施設が造られました。南北に伸びた街道を挟んで両側に山があるわけですが、資料によると西側の山間丘陵上150m程度の所に小規模な曲輪があるようです。
まずは車を停めて地元の方への聞き込みから始めます。「小山の台」というのは何処ですか? と資料に書いてある地名を訪ねる全長殿に返ってきた答えは、街道を挟んだ東の山の事だそうです…って資料と違うぞ…。なんだかんだで結局、地元民より資料を信じた私達は西側の山を登る事にしました。
辺りに登山道らしいものを見つけられなかった一行は、我先にと杉林を登り始めます。そして少し迷いながらも小名部城の南堀切に到達。この城ではこの堀切が一番大きな遺構で、尾根の先端部分にあたる北側は自然に還りつつあるようです。
主郭は南北約80m、周辺の数箇所に小さな段がある程度の小規模な城ですが、このような小さな集落の中にも城が発見できるとはこれぞマイナーロマン!?ただ、繁長は関根城まではほとんど抵抗を受けなかったといわれているので、この城での実戦は無かったかもしれません。
戊辰戦争時にも庄内軍に使われたそうですが、堀切峠を越す事ができなかった新政府軍は終戦まで小名部に入る事はできませんでした。
小名部より東へ直線にして約8キロ、同じように越後と国境を接する村、関川です。
こちらも南北に街道の支線が走り、それを見下ろすように曲輪が造られています。比高40mで頂上まではひと登りですが、非常に見渡しは良く関川集落と周辺を一望できます。ここは城という程の規模は無く、国境の見張場だったようです。頂上部分は三段に掘削されていますが、収容人数は三つ合わせてもせいぜい3・40人といった所。土塁や空掘も見当たりませんでした。少し低い所にも曲輪らしい平地がありますが、地元ばあちゃん勢の手に落ち畑に変わっています。
ここも小名部と同じく戊辰戦争時にも使われ、こちらは新政府軍の侵入を許すと激戦の舞台となりました。その際に一部改変されているとの事です。
集落内を進むkita殿と雨順斎殿。のどかだ…。
関川館の小山を攻める二人。なんか自分、こんな写真ばっかりだな…
裏側は急な崖となっています。落ちたら死ぬよ…とか言ってる図。
次に向かったのは、国境から鶴岡までの中間にある関根城です。先の二つの城は実はほんの小手調べ(と言いつつ半日費やしてるし…)。この関根城こそが本日のメインとなるべき城です。
関根集落の背後252mの道も無い山上に築かれた城は、やや手強い相手。しかし、同じ場所に二度の敗北を喫しないのが阿賀北魂。前回同様、居館があったといわれる台地を過ぎると尾根に取り付き登り始めました。
山城慣れしたKita殿と、密かな闘志を燃やす全長殿。私はシンガリを務めていましたが、ちょっと写真を撮ってると後ろ姿は見えなくなってしまいました。全長殿がまた討死して良いネタを提供してくれるだろう、と期待していたのですが、結局最後までペースは落ちなかったのが残念(?)。 Kita殿も第一回に比べてかなり機敏になったと絶賛しておりました。
急斜面を登り詰めて尾根上に着くと、雑木が伸び放題でかなり荒れています。史跡としての整備は全くされていないようです。それでも立木の間を縫いながら尾根を歩いていく内に城の全体像がつかめてきます。曲輪は南北に300~400m程ですが、東西の幅は広い所でも30m程度、その中に50cm~1m位の段で区切られた無数の曲輪があるようです。四方の尾根続きには堀切を入れ、中でも東北方向にある三重堀切は、全長殿に意味あるのかと言わしめる程の厳重さ。南側の堀切は底を広く取り、畝状に竪堀を入れているようです。この後訪れる藤沢館もこの手法が使われていますが、この周辺の特徴なのでしょうか??
一通り見終わると少し休憩。葉っぱの無い木々の間から下の関根集落が見下ろせるのはそろそろ限界。春ののどかな景色が広がると、ここが激しい戦の場所であった事など嘘のようです。城を攻め落とした繁長公も、ここから同じ景色を見たのでしょうか…。
昼食が遅くなるのはオフ会が盛り上がってる証。今日もまた遅めの昼食と行きたい所ですが、今ではすっかり主要道から外れてしまった山の中。湯田川まで出て食堂を探しますが、この時間までくるとなかなか営業している所はありません。さらに先に進むと国道脇に黄色い看板の小さなラーメン屋がありました。もう選んでいる余裕は無いと店内に入った三人が目にした見慣れないメニュー。それは…樽ラーメン! Kita殿が樽ラーメンを頼むとそれにのっかる私と全長殿。全長殿は一年前のオフの昼食で、二人と違う物を頼んで失敗した記憶が蘇ったとか…。
この樽ラーメン、単に樽にラーメンを入れただけと思う無かれ。スープも酒粕を効かせた大人の味(Kita殿談)に仕上っております。
昼食を終えると次の目的地は藤沢館です。なかなかの細工をしている城ですが、歴史の表舞台には出て来ないようで変遷はほとんど分かりません。本庄繁長の庄内攻めでも戦場になったとする資料もあるようですが…。
山城への登り口を探すと、地元の方が案内してくれました。山菜ドロと間違えられてもおかしくない三人組に親切にして頂き感謝です。少し登ると、張り出した尾根全体を取り巻く幾段にも及ぶ帯曲輪に目を奪われます。竹林の中に残るその掘削面は美しく、とても何百年という月日が経過しているものには見えません。一部が道の造成の為に直線的に均されていますが、その他はほぼ完璧に残っているようです。竹林は大地に根を張って土砂の崩壊を防ぐような話を聞きますが、竹効果なのでしょうか?少し離れた所には落石させる為に並べられた石があり、これがまた気分を高揚させます。
階段状の帯曲輪を過ぎると、今度はより大きい平面を持つ曲輪が何段も続きます。途中、横の急斜面を降りた所に「ふくろう岩」と呼ばれる大岩があります。ちょっとした洞窟になっていて、落城の際に姫君が逃げ隠れた…とかいう伝説が似合いそうです。
北西の尾根には巨大な箱堀を造り、前述したように底には畝状の竪堀を入れています。この堀下から見上げる主郭部分の切崖は壁のようにそびえ、上から攻撃されればとても登りつく事はできません。
そして、この城の不思議なのがこの頂上部分の主郭。一辺が5・60m程の三角形となっていますが、それを埋め尽くすように27もの浅い畝状空掘が曲輪の縁に向かって設けられています。今回は頼りのウモ殿が欠席なのが痛い。「排水溝?」「石落としの設備?」「隠れる為?」色々な憶測が飛び交います。ここまで攻め込まれたらこんな小細工した所でどうにもならない様な気がするのですが…どころか逆に味方が動き難いのでは?後に知ったのですが、これは「城の破却説」というのが有力なようです。
藤沢館を降りるとそろそろ日も傾きかけてきました。帰り道にも時間がかかるという事で今回はこれで終了です。はやりこの時期の山城は登り甲斐がありますな~。程よい疲労が一日の充実を感じさせます。一年ぶり参加のKita殿、休みが終わると嘆いていた全長殿、お疲れ様でした。残念ながら今回参加できなかったお二人もまた次回、阿賀北の山野で会いましょう!