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天守復元

天守復元
村上城・天守跡・写真
村上城・天守の復元3DCG合成写真

■DATA

建築:1663年
破却:1667年(焼失)
規模:7間×5間?

CG画像の精度はあくまで「イメージ図」程度であり、学術的に厳密なものではありません。詳しくはこちらをご参照下さい

2度築かれた天守

臥牛山の最高所、135mの山頂に位置していたのが村上城の天守である。実はこの天守、2回築かれており、初代天守は堀直竒によって、元和6年(1620年)前後に築かれたもの。二代目が、寛文3年(1663年)に松平直矩によって築かれたものだ。最高級の木造建築である天守が、わずか40年で腐朽するとは考えにくく、老朽化に名を借りた積極的な「建て替え」ではないかと筆者は考えている。「譜代15万石の権威を思い知れぇええ!」と若きナオノリ氏(当時26歳)が思ったからか、あるいは高度に政治的な意図をもって、豊臣系大名=堀氏の天守を、徳川系意匠に改築したのではあるまいか?(※)

だが、せっかく建て替えたこの天守は、建築後わずか4年で、あっけなく炎上してしまう。原因は高所の天守の宿命ともいえる「落雷」である。さすがにこれに懲りたのか、以後、天守が再建されることはなかった。ここでは村上城最後の天守となった二代目天守をCG化してみた。

「正保の城絵図」に描かれた村上城初代天守

■正保の城絵図の天守

多聞櫓と接続し、強力な防御線を形成していたことがわかる。[国立公文書館所蔵]

(※)

建て替え・意匠の変更に関しては「村上城は黒い城!?」で考察しています。

規模としては小型の部類

現存する石垣や礎石の状況から、天守1階の平面規模は、南北5間×東西7間(ほぼ10メートル×14メートル)ほどの長方形だったことが伺われる。棟と軒の長さが2間も違うことから、望楼型でなければ建設は難しかっただろう。

また、村上市の復元案によると、高さについては石垣も含めたて約20メートル。建物のみでは約15メートル程度と推定されている。これとほぼ同大の規模としては、弘前城や丸亀城、宇和島城天守の6間×5間などが現存し、正規の天守としてはいずれも小型の部類である(ちなみに、お隣新発田城の御三階櫓も6間×5間半でほぼ同規模である)。標高135mの山頂に位置する村上城の場合、どのみち天守は目立つので、それほど巨大な建物はもとより必要とされなかったのであろう。

外観を知る資料は少ないのが現状

建物の外観を知る手がかりは1640年代に描かれた「正保の城絵図」しか存在しない。だが、この絵図に描かれているのは、建て替え前の最初の天守である。肝心の2度目の天守については絵画資料が存在しないのが現状なのだ。断片的に伝えられているのは松平大和守日記に記された「唐破風がついていた」という情報くらいのものである。

というわけで、合成写真では、村上市作成の復元案を参考に、一階建ての入母屋に、二階建ての望楼が乗る基本形式は踏襲しつつ、三重目に軒唐破風がつく形式とした。あくまでも素人の推量なので、実際の外観がかなり異なっていた可能性は否定できない。

(初稿:2003.11.21/2稿:2004.04.29/3稿:2006.05.22/4稿:2017.07.23/5稿:2018.01.10/6稿:2018.10.25)

村上市による村上城・天守復元案

■村上市の復元案

唐破風ではなく出窓になっている。(村上市都市計画課『お城山とその周辺整備計画』(1994)より)