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中世期遺構群

中世期遺構群
村上城 中世期遺構群 写真

■DATA

残存物:土塁、竪堀等
残存度:★★★★★
藪化度:★★★

本庄氏時代の遺構が良好に残る

近世村上城が築かれる以前、臥牛山には本庄氏の手によって築かれた中世城郭「本庄城」が存在した。その姿は、かの有名な「瀬波郡絵図」に「むらかみようがい」として活写されているが、幸いにもこの時期の遺構が、臥牛山東麓を中心にかなりの程度残存している。

数ある遺構の中で最も良好に残るのは、本丸埋門下の遺構群である。大きく3段から成る帯曲輪と、その下の斜面を下る竪堀(竪堀7、右図)がその中心であり、竪堀下端部には技巧的な構えの外枡形虎口も残存する。これらの遺構の最外部には、規則的な折れを持つ竪堀10が巡っており、戦国期の外堀に当たるのではないかと推定されている。さらに、光徳寺裏の元羽黒八幡山、臥牛山東北端の天神平周辺にも、まとまった遺構が残存する。これらの詳細については別項を参照して欲しい。

中世期遺構群が着目されるようになったのはごく最近のことであり、遺構の解釈にも諸説ある。特に竪堀と沢地形の峻別、削平地と造林に伴う地形改変の峻別等については、観察者によってかなりの相違があるのが現状だ。

とりあえずここでは、筆者が2017年07月の段階で把握している遺構を図化しておく。今後も追加調査を加え、随時正確な図に正していきたい。

村上城 中世期遺構群 概略図

■瀬波郡絵図(部分)

後の「舞鶴城」も、戦国時代は見るからに「要害」といった無骨な城であった。(米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」)

村上城 中世期遺構群 竪堀写真

■山麓から見る竪堀7

長さは100mあまり、比高差も3、40mはありそうだ。

遺構の上部と下部で構築年代に差??

さて、この遺構群には一つの謎がある。それは、山麓部の遺構と山頂部の遺構とで、構築法にかなりの違いがあることだ。現地に足を運べば実感できるが、山麓近くの遺構が「堀底道が途中から曲輪に変わる」「小規模な馬蹄段の連続」といった、いかにも中世然とした縄張りを示すのに対し、山頂近くの遺構は、整然と切岸を連続させた、どちらかと言えば近世的な造作を感じさせるのである。

実は、この謎は、近世村上城の最初期の姿を示す「元和~寛永の城絵図」を見ると氷解する。同絵図の一部を右に示したが、なんと、埋門の下に二重に塀を巡らせた帯曲輪が描かれているではないか! つまり、遺構上部の帯曲輪群は、その土作りの外見とは裏腹に、最終的な使用時期が近世期まで下る可能性が高いのである。

もっとも、全ての曲輪が新造されたというよりは、もともとそこにあった中世期の曲輪を削り直すなどして、近世城郭に取り込んだのであろう。ただし、こうした形で帯曲輪群が維持されたのは近世初頭の数十年間にとどまったようだ。実際、享保年間以降に描かれた城絵図には、塀も曲輪も一切描かれなくなっている。おそらく、寛文年間の松平直矩の城普請に伴い放棄されたのであろう。

■元和~寛永の城絵図(部分)

山頂近くの帯曲輪群は、近世初期の段階では塀で囲まれて城域に取り込まれていたことがわかる。[国立公文書館所蔵]

追記(2005.04.18)

今まで学術的な調査が行われてこなかった中世期遺構群であるが、2004年12月~2005年1月にかけて、部分的ながらもトレンチ調査が行われた。

それによると、帯曲輪最上端部の2つの曲輪をつなぐ城道跡と、その下段の曲輪の西側辺縁部に排水溝跡が検出されている。どちらも数層の堆積土に埋没していたが、それらの大部分は自然崩落によるものではなく、近世初頭の村上氏、堀氏の城普請による廃土だと推定されている。実際、新潟大学所蔵の『堀家文書』には、本丸の削平に伴う残土を「本丸東之こしくるわ」に片付けるよう指示した書面が所収されている。

右に示したのは、調査結果から推定される城道と排水溝の位置である。これまで謎に包まれていた中世本庄城の姿がどこまで明らかになるのか…。調査の発展を願ってやまない。

(初稿:2004.01.20/2稿:2004.10.08/3稿:2005.04.12/4稿:2005.04.18/5稿:2005.06.19/6稿:2004.10.08/7稿:2005.11.27/8稿:2017.07.23)

■調査位置

部分的ながら中世の姿が明らかになったのは特筆モノ! 水色の部分が調査用のトレンチ位置。