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一文字門復元

一文字門復元
村上城・一文字門跡の写真
村上城・一文字門の復元3DCG合成写真

■DATA

建築:1620年頃
破却:1869年(自焼)
規模:3間4尺5寸×13間
   1丈1尺×10間半(続キ御多聞)
   3間×1丈1尺(御櫓)
   1丈×5間(御番所)

CG画像の精度はあくまで「イメージ図」程度であり、学術的に厳密なものではありません。詳しくはこちらをご参照下さい

多聞櫓に2階が存在!?

村上城・総構え部の最後の関門にして、山麓居館の入り口でもあった一文字門。各種絵図・古記録により、内枡形形式の櫓門だったことが判明する。正徳元年(1711年)の実測記録『村上御城廓』により、各部のサイズが判明しており、門櫓の大きさが13間×3間4尺5寸であったこと、枡形が約11間四方の規模であったこと、門櫓に10間半×1丈1尺(11尺)の多聞櫓がL字型に接続していたことなどが読み取れる。中でも特筆すべきは、多聞櫓の一部が二階建てになっていたことで、これにより、枡形内に侵入した敵に対し、上から畳み掛けるような攻撃が可能であった。山麓部最後の防御拠点にふさわしい厳重な構えである。

ところが、この二階部分が城絵図に描かれるのは江戸中期(享保~宝永)に限られる。江戸初期に成立した城絵図や、明治元年に描かれた「村上城城門絵図」(右参照)には、どういうわけか記載がない。もともとは単層の櫓に、寛文年間に松平直矩が二階部分を増築、その後、幕末の財政難によって撤去されてしまった…ということなのだろうか? 何分記録が残らないため、事の経緯は謎である。

明治元年の村上城・一文字門

■明治元年の一文字門

正徳年間にはあったはずの多聞櫓二階部分が描かれていない。財政難で取り払われたのだろうか?(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)

枡形二重重ねの厳重な防備

この門を抜けると山頂部へ登る「七曲り道」である。門がなくなった現在では、すんなり道にとりつくことが可能だが、往時はコトはそう単純に運ばなかったようである。というのも、門の内部には、御殿周囲の塀や長屋を利用した、もう一つの枡形空間が構築されていたからだ。

右に示したのは「内藤侯居城図」の一文字門付近の図である。一文字門の手前には、文字通りの枡形が構えられているが、それを抜けた先にも塀や長屋で囲まれた枡形状の空間があり、敵兵に四方から射撃をかけられる構造となっていたことがわかる。しかも、城山への上り口は、敵兵の死角となるよう石垣の背後に隠され、さらに長屋門が構えられるという厳重ぶりであった。

城内最高度の防御機構と規模を備えた一文字門であったが、結局実戦を経験することなく、北越戊辰戦争では自軍の手によって火がかけられた。復元画像は御殿外周部から望んだ一文字門の姿である。上を仰ぎ見れば山頂部の四ツ門がちょうど視界に入り、城郭中枢部の入り口としての示威効果は抜群であったろう。かつての村上藩士たちは、どのような気持ちでこの門をくぐって登城していたのだろうか…。

(初稿:2005.12.01/2稿:2017.07.23/3稿:2018.08.26/最終更新:2018年10月25日)

村上城・一文字門の前後にあった2つの桝形空間の図

■一文字門周辺図

建物部分を青で着色。門を抜けた先にも、塀や長屋で囲まれた第二の枡形空間が構えられていたことがわかる。(「史跡村上城跡保存整備計画 資料編」所収の「内藤侯居城全図」に筆者加筆)