ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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隅櫓群復元

天守復元
村上城・本丸隅櫓跡の写真
村上城・本丸隅櫓の復元3DCG合成写真

■DATA

建築:1663年
破却:1667年(焼失)
規模:各櫓4間×3間程度?

CG画像の精度はあくまで「イメージ図」程度であり、学術的に厳密なものではありません。詳しくはこちらをご参照下さい

櫓、多聞が林立していた本丸

臥牛山最高所に位置する本丸の塁線上には、『正保の城絵図』などから、多数の建物が上げられていたことが判明する。天守以外に、少なくとも5基の二重櫓が存在し、それらの間は多聞櫓で接続されていたようだ。重機もない時代、比高120mの山頂部に、よくぞここまで建物を建てたものである。

天守、冠木門、渡り櫓など、礎石の残る建物についてはおおよその規模が推定可能であるが、その他の多聞や二重櫓の平面規模は、他の建物の規模から類推するよりほかにない。おそらく、隅櫓はそれぞれ4間×3間程度、多聞櫓については、幅3間~2間程度であろう。

画像再現に際しては、こうした大雑把な推量と、村上市の復元案の図面を参考にした。明確な記録が残らないが、二重櫓の多くは1、2階が同大の「重箱櫓」であった公算も高いと思われる。(※)あくまでイメージ程度の再現精度となるが、高石垣上に櫓が林立していたかつての雰囲気を、いささかなりとも感じていただければ幸いである。

なお、山頂に威容を誇っていたこれらの建物も、寛文7年の天守炎上のまきぞえを食って失われてしまったらしい。時代が下った絵図では、本丸は空き地として描かれており、以後、建物の再建は行われなかったことが伺われる。

「正保の城絵図」に描かれた村上城・本丸隅櫓群

■正保の城絵図

本丸塁線上にくまなくめぐらされた櫓群。(国立公文書館所蔵)

(※)

櫓の多くが重箱櫓であったとの考察については「村上城は重箱の城?」にまとめています。

『正保の城絵図』と復元計画のズレ

さて、今回の復元で参考にした村上市の復元計画だが、例によって、「正保の城絵図」とは一部で食い違いが見られる。「正保の城絵図」のほうでは、本丸は完全に多聞櫓によって囲まれているが、復元計画のほうでは、一部の塁線が土塀に置き換えられているのだ。また、櫓の位置の解釈についても多少の相違があるようだ。

この解釈の相違を生み出したのは、1663年(寛文2年)に松平直矩によって行われた修築を、どのように解釈したかだと考えられる。「天守」のページで述べたように、このとき天守が建て替えられたことは確実なのだが、実は、それと合わせて他の建物の大部分も修築されたらしいのである。実際、「村上雑記」という古文書には「城山上普請 大和守様御代出来候 矢倉並に天守 但やくら廿一ヶ所」とあり、工事がほとんど城郭全体に及んでいたことが伺われる。

礎石が出てこないことにはなんとも言いがたいが、やはり「正保の城絵図」に描かれた段階と、現状遺構との間には、何らかの相違があったと見るほうが自然であろう。

(初稿:2003.11.21/2稿:2004.04.29/3稿:2006.06.18/4稿:2017.07.23/最終更新:2018年10月25日)

村上城・本丸隅櫓群の村上市による復元案

■村上市の復元案

正保の城絵図が塁線を全て多聞櫓で取り巻いているのとは異なり、一部を塀としている。