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秋葉門跡

秋葉門跡
村上城 秋葉門跡写真

■DATA

残存物:-
残存度:-
藪化度:-

何度か構造変遷があったらしい

別名「熊鷹門」(くまたかもん)とも称した秋葉門は、新町曲輪の北面を固めた門の一つである。「正保の城絵図」には大型の藥医門らしき姿で描かれ、正徳元年(1711年)の実測記録である「村上御城郭」にも、2間×5間の「冠木造り」だったと記されている。ところが、それから若干時代が下った「享保7年 越後国村上城絵図」(1722)や明治元年の「村上城城門絵図」には櫓門として描かれており、どうも描写が安定していない。

この違いは、江戸期を通じ、実際に門形式が何度か変更されたことを反映していると考えられる。というのも、「正保の城絵図」「享保7年 越後国村上城絵図」は幕府に提出する前提で描かれた絵図であり、軍事的に重要な施設である城門を、いい加減に描写したとは考えにくいからだ。そうした前提にたって、秋葉門を描いた各種絵図類を時代順に並べてみると、1722年の享保7年「越後国村上城絵図」が、薬医門→櫓門に構造が変わった画期となっていたことがわかる。

では、最初から秋葉門は薬医門形式だったのだろうか? 実は、秋葉門を含む新町曲輪の城門は非常に規格性が高く、青木門耕林寺門、堀片門は、ほぼ同一構造(2間半×4間の櫓門)であった。おそらく秋葉門も、本来は同じ形式で建てられたものが、江戸のごく初期に何らかの理由で喪失。一旦は簡易構造(藥医門)で再建されたが、のちに本来の櫓門形式に復されたと見るのが自然ではないだろうか。再建時期は、絵図との照合から、松平輝貞の在城期(1710~1717年)と見てよいだろう。(この時期にもともと「熊鷹門」と称した当門の近くに秋葉社が勧請され「秋葉門」と改称された)

さて、その現況であるが、明治のはじめに敷地が民間に払い下げられたため、痕跡は全く存在しない。堀跡も埋め立てられて暗渠と化し、道路形態にも枡形の痕跡は見られない。門跡を示す標柱のみが痕跡であり、もう少し詳しい解説板を設置するetcの措置を望みたい。本来は「秋葉門復元」に示したCG図のような景観だったはずである。

秋葉門の構造変遷

■秋葉門の構造変遷

上から順に「正保の城絵図」(内閣公文書館蔵)、「享保7年 越後国村上城絵図」(村上市蔵)、「村上城城門絵図」(平野邦広氏所蔵)。

武家屋敷が周囲に残存

門跡の周辺で注目されるのは、藩政時代の道筋をほぼ踏襲する付近の道路形態である。特に、城山への見通しを強く意識している道は多く、往時は武家屋敷の屋根越しに天守を望むことができたであろう。日本の城下町らしい動的な景観演出を実感できるスポットとして、ゆっくり歩いてみることをお勧めする。

また、この周辺は、武家屋敷の残存密度が高い地域でもある。市の文化財に指定された成田邸のほか、嵩岡邸、藤井邸、岩間邸の4棟が「まいづる公園」にて移築保存されている。さらに、佐藤邸、福崎邸など、一般の民家として現役の建物も散在する。もうちょっと手が入れば、良好な景観になると思うのだが…。

(初稿:2005.03.04/2稿:2005.06.02/3稿:2017:07.23/4稿:2017.12.24)

村上市 武家屋敷 成田家住宅写真

■成田家住宅

市指定文化財として移築保存されている武家屋敷のうちの1棟。