ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
トップ 村上城の謎

御殿徹底研究(2)

空間利用の特徴

最盛期には15万石大名の居城にふさわしい規模を備えていた村上城の御殿。では、その特徴とはどのようなものだったのだろうか? 各種資料を検討した結果、筆者としては「居住性よりも格式の維持にこだわった御殿」と言えるのではないかと思う。その理由を、御殿の空間利用から読み解いてみたい。

右に示したのは、江戸期を通じた村上城御殿の空間構成比を示した円グラフである。先に述べたように、御殿には「表」「中奥」「奥」の3つのパートがあるが、村上城の御殿は「表」部分の占有率が一貫して高く、江戸前・中期で31.2%、後期においてはほぼ40%に達していることがわかる(「表」部分の面積が増えたというよりは、「奥」部分が藩勢の衰退により縮小したことによる)。

このような空間利用は、謁見儀礼を重視したことの何よりの証左であろう。村上城御殿の主要部は江戸初期の村上氏・堀氏の段階で建てられたと考えられているが、彼らが厳格な家臣団統制を通じて城主権力の確立に腐心していたことと、御殿の権威主義的な空間構成は無関係ではあるまい。

村上城 御殿の空間構成比

■村上城御殿の空間構成

※「越後村上城居城分間図」「内藤侯居城図」より算出。

比較のために、規模がほぼ等しい隣藩の新発田城本丸御殿のデータについても示しておく。こちらは江戸中期(1688年)に再建された後の様子を示した「新発田城中御間柄全図」から算出したデータとなるが、こちらの場合、「表」部分の狭さに対し、「奥」部分の広さが際立っており、村上城とは対極的な設計思想に基づいていたことがわかる。

一般的な傾向として、身分制度の強化が重要だった江戸初期に建てられた御殿ほど、儀礼・接客空間である「表」が巨大化する傾向が指摘されている。対して、身分制度が固まってしまった江戸後期にはその重要性が低下し、代わって「奥」の建物が拡大するようだ。

新発田城 御殿の空間構成比

■新発田城御殿の空間構成

※「新発田城中御間柄全図」より算出。総面積は筆者計算によると1376坪。

部屋割りの特性

村上城御殿の権威主義的な性格は部屋割りにも現れる。下に示したのは、村上城の御殿と新発田城の御殿の平面図を同一縮尺で並べたものだ。(※1)

一見して、村上城の部屋割の大きさと新発田城の細かさが目につく。これは「表」部分に対する考え方の差が反映されたものだろう。玄関、大広間、大書院といった儀礼空間はいずれも村上城が上回り、特に藩士の総登城などで使用される大広間/大書院の面積は両者で倍以上の開きがある。

一方、「奥」部分の充実度では両者の立場は逆転する。村上城の居住スペースは、一室の面積こそ大きいものの、基本的には部屋を一列に並べただけの単調な構造である。これに対して新発田城では、目的に応じて空間が細分化されており、特に世継専用の居住区である「新座敷」(下図の左上部分にある突出部)が造営されている点は注目されよう。また、随所に空閑地を設けて採光に配慮するなど、居住性への配慮も優れている。

ちなみに、村上藩には病気がちの殿様も多く、不幸にも城中で亡くなったケースもある。薄暗くだだっ広い(=寒い)部屋で暮らしていたこととが、その遠因になったと言ったら言い過ぎであろうか?

村上城・新発田城御殿比較

(※)

「越後村上城居城分間図」「新発田城中御間柄全図」より作成。空間分類は同図の各部屋名称から筆者が判断。1目盛り1間=6尺5寸=1.95mで計算したが、あくまで「概図」なのはあしからず。

1 2 3