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享保2年 間部家絵図

江戸中期の村上城を知る重要絵図

村上城を描いた数ある城絵図の中から、今回は新発田市立歴史図書館所蔵「越後國村上城下絵図(享保二年間部家絵図)」を取り上げます。成立年代は享保二年(1717年)。松平→榊原→本多と続いた15万石時代が終わり、松平(7.2万石)→間部(5万石)→内藤(5万石)と、藩勢が縮小に向かう時期に描かれた絵図です。現物を閲覧&撮影する機会を得ましたので、少々その特徴をまとめておきたいと思います

新発田市立歴史図書館所蔵「村上城下絵図(享保2年 間部家絵図)」

詳細な建物描写

第一の特徴として、個々の建物描写が非常に詳細であることが挙げられます。以下は御鐘門付近の拡大ですが、いずれの建物も屋根材は杮葺きと思しき(?)植物性材料っぽい描写で、壁は窓の下端、もしくは上端に達する茶色の板張りの描写で描かれています。

享保2年間部家絵図 御鐘門付近

屋根材の描写は、他の多くの城絵図にも通じる表現ですが、問題は壁面のほうです。実は、江戸前期の「正保の城絵図」~幕末に至るまで、他のほとんどの村上城絵図は建物を漆喰白壁で描いており、建物ほぼ全てを板張りで描写するのは本絵図のみです。いずれかが誤りなのか、たまたま間部家在城の頃に壁面仕上げが板張りに変更されていたのか、確たることは不明ですが、仮に板張りが真実だった場合、世間に流布している村上城の外観イメージとは相当異なる意匠だったことになります。

天守台に建物はナシ

享保2年間部家絵図 落雷焼失した村上城本丸付近

1663年に松平直矩が改装した天守は、わずか4年後の1667年に落雷・焼失しています。これを反映し、本絵図の本丸最上段(=天守台)は石垣のみが残った姿で描かれており、塁線には塀のみが巡らされています。

ただし、絵図をよく見てみると、本丸入り口には、小ぶりな高麗門(?)とその番所らしき建物が描かれています。落雷時に焼け残ったものか、焼失後に新たに建てられたものなのか判然としませんが、もぬけの殻となった後も、本丸内への人の出入りが管理されていたことが伺えます。

外郭土塁上に櫓

1640年代の正保図の段階では見らない建物が、外郭土塁上に描かれています。具体的には藤基神社外周を巡る土塁上に3棟、小町裏の土塁突出部に1棟、計4棟の平櫓が確認できます。同様の描写は1600年代末期~1700年代盤ごろの他の絵図にも共通するので、おそらく松平直矩の大改修(1663)で付加されたものと考えられます。これらの建物は1800年代初頭までは存在したらしく、「村上町年行事所日記」を見ると、殿様の奥方や女中たちが櫓に登り、村上祭りを見物した…といった記録を拾うことができます。

気になるのは1711年の実測記録「村上御城郭」に記載がない点ですが、ひょっとするとこれらの建物は「城郭建造物」ではなく、各武家屋敷の付属建造物と見做されていたのかもしれません。

享保2年間部家絵図に描かれた村上城外郭の平櫓

御作事に謎の石垣

享保2年間部家絵図 御作事付近

現在、登城者向けの駐車場になっている城山の西麓には、江戸時代を通じて藩の作事小屋が置かれていました。本絵図にも「御作事」の注記が確認できますが、付近をよく見ると、城山の斜面を穿つように、小さな「コの字型」をした石垣が描かれています。現在、同位置にこのような石組は確認できませんし、筆者の管見の限りでは、文献資料上にもこれといった記録は見当たりません。位置的に防御施設とは考えにくいので、ひょっとすると、何らかの穴倉状の施設を表現したものかもしれません。

中世期遺構の完全放棄

本庄城由来の段郭群

城山裏手にあたる臥牛山東側斜面には、中世「本庄城」段階に築かれた大規模な帯曲輪や竪堀などが残ります。近世初頭の正保図段階では、それらの一部は引き続き利用され、帯曲輪沿いに塀を回していた様子が描かれていますが、本絵図にはそうした描写はなく、中世期の遺構が完全に放棄されたことが確認できます。おそらく、1663年の松平直矩の改修によるものでしょう。

ただし、防御施設としては使われていないものの、遺構の存在自体は把握されていたようです。同位置を比較してみると、概念的な描写ながら段郭の存在がしっかりと描かれています。また、塀は失われたものの、井戸がある一角(馬冷やし場)の周囲には背の高い杉木立(?)が周辺の樹木とは明らかに描法を変えて描かれており、一応は視線を遮るような配慮がなされていたことが読み取れます。

ちなみに、本絵図の制作から下ること5年、享保7年の「村上町年行事所日記」を見ると、例年、多くて数十人程度しか動員されていない「城山御根草刈」に、一挙800人超もの町人が動員されたことが記されています。藩当局が、藪に埋もれた防御施設の確認作業でもやったのでしょうか? 現代の城オタ的には非常に気になる記録です

享保2年間部家絵図に描かれた村上城の中世期遺構

区割り、門位置まで記す武家地

城下の武家屋敷の区画割りまで描かれているのも本絵図の特徴です。石高の大幅減少により、そこら中に「侍屋敷明キ地」の記載が目立つわけですが(汗)、注目すべきは、四角囲みで屋敷の門位置を描いている点です。明治以降の敷地の細分化等により、かつての武家屋敷の門位置は判然としなくなっていますが、本絵図の描写をもとに、ある程度の推定が可能になります。また、門位置を描いた敷地と描かない敷地がありますが、単純な記載漏れというよりは、実際の門の有無をある程度反映した描写ではないかと個人的には思います。(城郭中心部に近いエリアほど門を描く区画が多い=家臣の石高・家格を反映したものと思われる)。

同様に気になるのが、城下辺縁部に記された、細かい短冊状の敷地割りです。足軽屋敷が配されたたエリアですが、この敷地割りの細かさから判断すると、長大な長屋が配されていたと見られます。残念ながら、村上には同種の遺構が残らないのですが、お隣新発田藩の足軽長屋などと、そう大差のない建物だったのではないでしょうか?

なぜこの絵図が新発田に??

以上のように、本絵図からは城や城下町の変遷を知る上で、多くの情報を読み取ることができます。城郭建造物の描写の具体性、武家地の屋敷割の詳細さから想像するに、おそらくは間部家が入封するにあたってつくられた、家臣の屋敷割りの下図、ないしはその写しなのではないでしょうか?

気になるのは、軍事機密に関わるようなこうした絵図が、なぜ他藩である新発田にあるのかという点です。村上から大名家が移動した姫路や高田はともかくとして、このレベルの絵図が隣藩に漏れたというのは、ちょっと不自然な気がしてなりません。明治以降に、元村上藩士が新発田に持ち込んだのか、はたまた主家を変えた武家があったのか? 所蔵元の新発田市立歴史図書館に本絵図の来歴を調べていただいたのですが、確たることはわかりませんでした。

(初稿:2019.10.31)