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正保の城絵図を読む(1)

一級資料=正保の城絵図

村上城に限らず、城郭研究上の超重要資料として知られる「正保の城絵図」。1644年、江戸幕府が全国諸大名に命じて作らせた城絵図で、当時の城下町全体の様子が極めて詳細に描かれている。もともと160城程度の絵図があったとされるが、散逸を免れたのは控えや写しまで含めて70城余。幸い村上城を描いた「越後國村上城之図」は現存し、国立公文書館に現物が保管されている。

この絵図、全点が重要文化財指定を受けていることもあり、長らく一般人の原本閲覧が認められていなかったのだが、2010年から本格稼働しはじめたデジタルアーカイブ化により、近頃、超精細画像がネット上で無償利用できるようになった。この威力は絶大で、縮刷版ではぼやけていた絵画表現が鮮明に読み取れるようになったばかりか、細かい注記類までほぼ完璧に読み取れるようになったのである! …読める! 私にも読めるぞぉおおお!(←ムスカ風に)

というわけで早速「越後村上城之図」の全注記を読解、その結果をまとめてみた。筆者による読み下しを加筆したものをダウンロードのコーナーに置いておくので、適宜参照していただければ幸いである。

正保の城絵図「越後國村上城之図」読み下し版

■読み下し版「正保の城絵図」

筆者によるイマイチ怪しい読み下し文つき。大判サイズはダウンロードのコーナーにて。間違いあったら教えてください。

充実した注記類

正保の城絵図作成の目的は、軍事的な視点から各地の城郭の防御性能を明らかにすることであった。そのため、図中の注記類が非常に詳細で、石垣、土塁、堀の長さ、高さ(深さ)、幅など(※1)、絵画表現だけでは判読できない情報をかなり補完することが可能である。村上城の場合、正保図から70年ほど下った正徳元年(1711年)にも「村上御城廓」という実測記録が作られているので、両資料の記載値を合わせて検討することで、失われた遺構の姿をより多角的に推測できる。

問題は、記載値の測量精度である。そこで、正保図に記されたいくつかの箇所を、「村上御城廓」の値、現代の測量値と比較してみると、ほぼ同一の値を得ることができた。約370年も前の測量であるが、精度はそれなりに出ていると見て良さそうである。(※2)

 
場所 正保図(1643) 村上御城郭(1711) 現代の測量値
天守台 4間 4間4尺(最高所) 7.82m(最高所)
出櫓下 2間1尺 1丈5尺5寸 4.50m
埋門~平櫓 4尺 3尺5寸 1.4m
靱櫓下 8尺 7尺、角2間 3.38m(最高所)

(※1)

幕府が記すよう命じた具体的な項目については佐賀鍋島家や加賀前田家に記録が残っている。それによると、石垣、堀、土塁の幅、高さはもちろん、個々の建造物の詳細や街路の長さ、果ては郭外にあっても城を見とおせるような山、およびその高さや距離などにも及んだ。(「先年一国絵図公儀え上り候節之覚」、千田嘉博「正保の城絵図の制作と特色」『図説 正保の城絵図』(新人物往来社 2001.05)

(※2)

現代の測量値は、村上市教育委員会『村上市埋蔵文化財調査報告書第8集 史跡村上城跡石垣調査報告書Ⅰ』(2017.03)、村上市教育委員会『史跡村上城跡整備基本計画 資料編』(1998.10)より。

失われた総構えを推定してみる

精度に一定の信頼性がおけることが確認できたので、具体的な読み解きを進めていきたい。特に、現代ではすっかり失われてしまった総構えの堀・土塁に関しては、こういった文書記録が数少ない手掛かりとなる。早速、外郭の正門たる大手門(現在の村上市役所付近)の様子について見てみると…

■大手門北側の堀・土塁
此ノ土居高2間 
此ノ堀長176間 堀口7間 深2間 内水3尺

■大手門南側の堀・土塁
此ノ土居高2間 
此ノ堀長313間 堀口7間 深3間 内水1間

…と記されている。「高さ」「深さ」がどの平面を基準にしているのかは絵図中に示されていないが、藤基神社裏手の土塁現存部との比較から「地表面を基準とする相対値」と見てよいだろう。よって、大手門北側の断面は、CG図のように再現される。今は何の痕跡も残っていない市街地中心部に、こうした土木工作物が縦横無尽に築かれていたわけだ。

正保の城絵図より村上城大手門付近 正保の城絵図より村上城大手門付近の堀・土塁断面図

■正保図に基づく堀・土塁断面図

城内一高い石垣は一文字門だった!

しらみ潰しに堀・土塁に関する注記を拾っていくと、城下全体の中で最も堀が深いのは山麓居館の周囲の「深4間」であったことが判明する。この上におよそ2間の土塁と4尺ほどの鉢巻石垣が回っていたので、堀底からの比高差はおよそ11mもあったことになる。

また、ここで注目すべきは一文字門付近の石垣の描写である。同門の枡形内の石垣には「石垣高2間3尺」との記載があるが、堀に面した側は、深さ4間の堀底から石垣が立ち上がっているような描写である。とすれば、堀底からの深さ4間+2間3尺=6間3尺となり、天守台の高さを上回って、村上城で最も高い石垣ということになる。

実は1711年の「村上御城廓」においても、同じ箇所の石垣高について「7間2尺」との記録が残る。江戸時代、城下の人々は山頂にはめったに登れず、出入りできたのは概ねここまでだった。城内最大の石垣を山頂ではなく山麓居館入口に築いたのは、多分に視覚効果を意図してのことであろう。



正保の城絵図より村上城一文字門付近

■一文字門付近

深さ4間の堀底から地上2間3尺まで石垣造りだったようである。

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