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堀氏時代の村上城(1)

実相が知られていない? 堀氏の村上城

近世城郭・村上城が一応の完成を見たのは、堀直竒が在城した1620年頃のことだと言われている。一般には、この時点をもって「村上城の基本構造は堀氏の時代に確定した」と説明されることが多いようだ。

だが、成立年代はともかくとして、城の構造までこの時点で確定したとする言説には疑問が残る。例えば、右に示したのは、堀氏段階の城の様子を描いた『正保の城絵図』(上)と現代の城跡から建物位置を推定した図面(下)だ。一見して、塁線形状がまるで一致していないことがわかる。さらに、少し注意して見てみれば、本来は存在しないはずの建物が『正保の城絵図』にはいくつも描かれていることにも気づくだろう。

幕府に提出する「公文書」である城絵図が、このような差異を「描写の違い」で済ませたとは考えにくい。やはり、堀氏時代の村上城は、現在とはかなり異なった姿をしていたと考えたほうが自然であろう。

こうした前提に立って、改めて見直したいのが1660年代に行われた松平氏の城普請だ。このときの普請は、「天守の新造」くらいしか行われなかったように思われがちだが、実際にはそれをはるかに上回る規模の工事が行われている。例えば、江戸時代の古文書『村上雑記』には次のような記述が登場する。(※)

・城山上普請 大和守様御代出来候歟 矢倉並に天守 但 やくら廿一か所
・丹後守様御代より山上地形三尺下ル

要約すれば「松平氏時代の城普請で、城山の高さは約1m低くなり、天守に加え、21棟の櫓が作り直された」といったところだろうか。すなわち、堀氏の村上城は、松平氏の手によって、かなり広範に作り変えられた公算が高いのである。

というわけで本稿では、イマイチその実相が省みられてこなかった、堀氏段階の村上城を、各種資料をふまえて3D復元する。あくまでも「学術的な」復元ではない点はあしからず…。

村上城 新旧塁線比較

■遺構図の比較

堀氏時代の状況を示す「正保の城絵図」と、現在残された遺構の間にはかなりの相違がある。(下図:村上市教育委員会「史跡村上城跡整備基本計画 資料編」1998.10 所収の図に筆者加筆)

(※)

鈴木鉀三「稿本村上雑記」中山こうはん 1973.06

構造が変わった主なポイント

堀氏時代の村上城の姿を描いた絵図には、「正保の城絵図」と、さらに古い時代に描かれた(と思われる)「元和~寛永の城絵図」が存在する。しかし、構造変化の転機となった松平氏時代の絵図は、残念ながら存在しない。よって、今回の試みにあたっては、1717年に描かれ、一定の精度が期待できる「享保2年 間部家絵図」と、ほぼ同時期の1722年に描かれた「享保7年 越後村上城絵図」、そして、維新時の様子を描く「内藤候治城明治維新時村上地図(以下「明治維新時地図」)」、現在の測量図を主な資料とした。また、絵図の描写から読み取れない変化は、『村上雑記』『掘家文書』『松平大和守日記』等の文献資料を参考にした。

さて、以上の断片的な資料を参照した結果、掘氏段階の村上城と、松平氏時代の村上城の間には、下図のような違いがあったと筆者は考える。建物の外装までははっきりしないが、ここでは本コーナーの「村上城は黒い城?」で示した「下見板張り仮説」に基づいて、黒い板張りの外装で再現してみた。

ではさっそく、次ページから各所を詳細に見ていきたい。

堀氏時代と松平氏時代の村上城の比較図
元和の城絵図

■元和~寛永の城絵図

正式名『日本分国絵図 越後村上城図』国立公文書館蔵

享保2年 越後国村上城下絵図

■享保2年 間部家絵図

正式名「越後国村上城下絵図」。間部家在城時と推定される細密な絵図。(新発田市立歴史図書館所蔵)

享保7年  越後村上城絵図

■享保7年 越後村上城絵図

1722年に幕府に石垣損壊箇所の修復を願い出た際のもの。その目的から一定の精度が期待できる。(村上市所蔵)

内藤候治城明治維新時村上地図

■明治維新時地図

明治元年の状況を示した村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」。測量精度が大変高い。

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