ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
トップ 村上城の謎

正保の城絵図を読む(2)

絵図全般から見えることは?

同じ要領で各部を解説しだすときりがないので、強引だがまとめに入ろう。全注記を読み下すと、以下のようなことが言えそうである。

1)中心部ほど入念な防御
当たり前と言えば当たり前だが、城郭中心部に近いほど石垣・土塁・堀の規模は大きくなる。細部での違いはあるものの、山頂部から同心円状に、大体以下のような規格性が認められる。最外郭部の堀幅は4~5間であるが、村上と同規模の城下町も大体この程度であった。

石垣 土塁
山頂部 総石垣 - -
山麓居館 門付近+鉢巻石垣 高さ2間2尺 幅7間/深さ4間
二ノ丸・三ノ丸 門付近のみ 高さ2間 幅7間/深さ3~2間
新町曲輪 - 高さ1間2尺 幅5間/深さ1間
庚申郭 - 高さ1間1尺 幅5間/深さ1間
総町曲輪 - 高さ1間2尺 幅4間/深さ1間

2)総構えの門石垣は土塁上に立つ
総構えの門石垣の高さは、多くの箇所で2間~2間半程度である。これらに接続する土塁高は2間、堀の深さは2間程度だったので、多くの外郭門の石垣は、堀底からではなく、土塁途中から立ち上がる構造であったことがわかる。
これと併せて注目されるのが、門手前の土橋の構造だ。「村上御城廓」からの補足情報となるが、村上城外郭の多くの土橋は両サイドに塀が回してあり、石垣下端部や堀の水面を見られない構造になっていた。石垣をケチったことや、堀幅が狭い箇所でもバレにくいよう、工夫したものと推察される。
典型的な外郭門である二ノ丸南端・中ノ門のCGを示しておく。一見、どこにでもありそうな内枡形門であるが、良く言えば「巧妙」、悪く言えば「ハッタリ満載」な構造だったと言えそうである。

村上城の外郭門 基本構造 中ノ門CG

■中ノ門周辺CG

3)山頂部「本丸」の正保図注記は現存遺構にほぼ同じ
正保図に記された山頂部「本丸」の石垣高は、現存遺構の測量値とほぼ等しい「4間」と記されている。また、塁線形状も現存遺構とほとんど変わりがない。一見、なんでもないことのように思われるかもしれないが、この点は村上城の構造変遷を考える上では重要なポイントである。というのも、「村上雑記」という古文書には、正保図が描かれてから約20年後の寛文3年(1663年)、松平直矩によって「城山地形三尺下ル」ほどの大改修が行われた(※)と記されているからだ。記録上は、正保図が描かれた段階と、現在残る遺構の間には、相応の変化があって然るべきなのである。

資料の制約上、判断が難しい部分ではあるが、筆者としては、村上雑記が「城山地形三尺下ル」として「本丸地形三尺下ル」とは記していないことが気にかかる。ひょっとすると、地形が三尺削られたのは、本丸付近とは限らないのではなかろうか?

そうした観点で改めて正保図を眺めてみると、塁線形状が大きく変更された現在の御鐘門付近の描写が気にかかる。この箇所の石垣高は、現状では周囲の石垣高と同一レベルなのだが、正保図の描写では周囲より1段高い石垣上に平櫓が乗っているような描き方である。真相は正直よくわからないが、この付近のほうが「三尺下ル」という記録との整合性は、より高いように思われる。

「城山地形三尺下ル」のはむしろこっちじゃね?

(※)

詳しい考察については「堀氏時代の村上城」にて。

残された謎=下渡山の存在を秘匿した?

以上のように、正保の城絵図の注記からは多くの情報を得ることができるのだが、どうにも解釈が難しい箇所もある。それは、堀や土塁の測量精度に比して、周辺の山々との位置関係が妙に不正確である点だ。

例えば、城山裏手にある坪根の丘陵地を指すと思しき「阿弥陀ち山」は、実際の高さの半分にも満たない「高11間」と記されている、さらに、城山から2.3kmほど北に位置し、本来は城山(135m)より約100m高いはずの下渡山(238m)に至っては、「山高5間 本丸地形ヨリ五拾壱間ヒキシ」(=山の高さ約9m、本丸地形より92m低い)と、実際とはまったくかけ離れた数値が記してある。右に示したように、絵図内の注記同士の整合性は一応取れているので、誤記(本来「高シ」とすべきところを「ヒキシ」とした/もしくは後世の誤記か?)と見るのが素直なのだろうが、筆者としては、村上藩サイドが「あえてそう記した」可能性を排除すべきではないと思う。

というのも、村上城近傍に位置し、100m近く城より高い下渡山は、村上城内の動きを監視できる絶好のポイントである。戦国期には、出城である下渡城を築いて敵の侵入を防いでいたくらいで、永禄の本庄繁長の乱では上杉方との争奪戦さえ起きている。他藩の絵図ではこういった古城跡に、律儀に「古城」と記している(※)ケースもあるが、本図にはそのような注記もない。

正保図は幕府に提出する公文書であり、藩内で複数の目を通したことが確実である。いざツッコミが入っても言いわけが立つような細工をしつつ、あえて誤記のフリをして戦略的要地を秘匿した――そんな推測は成り立たないだろうか?

絵図の制作から既に370年。今となっては、上記の想定を確かめる術はない。一級資料が残した大きな謎である。

追記(2018.01.30)

というわけで、自分としてはかなりの労力を割いて翻字した「正保の城絵図」であるが、「村上市史 絵図・地図・年表編」の付録に、読み下し文つき白地図がついているのを後日発見しました。。。とりあえず大きな間違いはなかったようで良かったです。

(初稿:2017.11.24/最終更新:2018年01月30日)

正保の城絵図より「越後國村上城之図」下渡山付近拡大図

■下渡山付近拡大

238mの下渡山を「高5間」と記す。なお、絵図内では一応、次の計算式が成立しているが、本来は「高シ」ではあるあみか?

「下渡山の高さ(5間)」=「本丸の高さ(56間)」-「本丸ヨリ51間ヒキシ(51間)」

(※)

国立公文書館が公開している正保図をひと通り筆者が確認したところでは、米沢城(城西方に「古城」)、上田城(城北方に「古城」)、小田原城(尾根続きの八幡山に残る戦国期の空堀を記載)伊勢亀山城(城南方に「古城」)記載あり。

1 2