ビジュアル再現村上城ロゴ
トップ 村上城の歴史

戦国時代

村上城の歴史(戦国時代)

「本庄城」の成立

村上市街地の東端に位置する臥牛山(標高135メートル)上にはじめて城が築かれたのがいつ頃なのか、正確な年代は特定されていない。一説によれば鎌倉時代にまでさかのぼると言われているが、当時の築城形態を考えるとにわかには認めがたい。諸説総合すると、戦国時代の動乱が本格化する1500年代初頭に築城されたと見るのが妥当であろう。

さて、この時代の村上城は「本庄城」と呼ばれており鎌倉時代からこの地方を領有してきた本庄氏の本拠地であった。本庄氏は代々武門の家柄で、特に戦国時代末期に登場した本庄繁長(ほんじょう・しげなが)は猛将として知られている。「越後の龍」こと上杉謙信に従った繁長は、川中島の戦いなどでも武勲を挙げており、上杉家中でも上位の席次を与えられる実力者であった。

しかし、独立領主としてのプライドが高かったのか、繁長は上杉家の軍門に100%下ったわけではなかったらしい。上杉家とは対抗関係にあった芦名氏や伊達氏とも関係を深めており、1568(永禄11)年にはついに、甲斐の武田信玄と内通して、上杉家に謀反を起こすのである。

Honjo Shigenaga parriying an exploding shell

■本庄繁長

歌川国芳「甲越勇将傳・本庄越前守繁長」(著作権情報:歌川国芳 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で)

上杉謙信の攻囲に耐える

繁長謀反の報を聞いた謙信は、自ら出陣して繁長の立てこもる本庄城を攻めた。しかし、戦術巧者の繁長が守る本庄城は容易に落ちず、岩船、猿沢、大場沢、笹平、大栗田などで両軍は幾度も干戈を交えた。現在の村上市街地周辺も戦場となり、1569(永禄12年)には両軍が激突する大規模な野戦(当地の伝承で言う「飯野が原の戦い」か?)が行われている。

結局半年あまりに及んだこの乱を通じて本庄城は持ちこたえ、最終的には繁長が息子を人質に出すことで終息した。上杉軍団に復帰した繁長は、以後忠勤に励み、1588(天正16)年の庄内出兵では、東膳寺・最上連合軍を十五里ケ原に撃破。上杉家の庄内領有に大きな役割を果たす。さらに、時代が下った1600(慶長5)年の関ケ原前哨戦では、伊達政宗の軍勢を福島に破るなど、その軍功には目覚しいものがあった。

ところが、繁長は1591年、庄内出兵が惣無事令に違反するとして秀吉に蟄居を命じらてしまう。その結果、本庄城と周辺の領地は大国実頼(直江兼続の実弟)の管理下におかれた。本庄城には大国氏の家臣、春日元忠が代官として入り、上杉の番城として領域支配を行う。上杉氏は、現在の岩船郡域の支配拠点として本庄城を位置づけたらしく、本庄城のさらなる修築と合わせて、周辺の諸城を破却している。集権的な支配体制を築くのが目的であったのだろう。

(※)

こうした反骨精神旺盛な姿勢は本庄氏の伝統とも言える。事実、繁長の父である房長、祖父である時長なども、度々越後の中央政権に反乱を起こしており、その度に村上城は攻防の舞台となっていたようだ。

(※)

この本庄繁長の乱に関しては、郷土史家の大場喜代司氏の考察が詳しい

「瀬波郡絵図」に見る戦国期の姿

この時期の本庄城の姿を伝える絵画資料としては、1597(慶長2)年に製作された「瀬波郡絵図」が知られている。同絵図の詳細な検討はまた別にするとして、現在の主要な登城ルートである「七曲道」や、山麓の根小屋部分(後世の居館部分)が当時から存在していたことなどが読み取れる。

一方、建築物に着目してみると、櫓はほとんど1階建ての平櫓。塀の使用も一部で見られるものの、曲輪を区切るのは木柵がメイン。石垣の使用も見られず、防御はもっぱら、人工的に斜面を削りこんで作った急斜面(切岸)や、尾根筋を断ち切った「堀切」に負っていたようだ。まさに中世城郭の典型例とも言える構造である。この時期の遺構は現在でも臥牛山東側の斜面を中心に残存しており、竪堀や桟敷状の小曲輪などが観察できる。

ちなみに、同時期の西国では、大阪城、岡山城、広島城といった、巨大な近世城郭が建設ラッシュを迎えていた。都から遠く離れた越後には、まだその技術が伝播していなかったようだ。

■戦国期「村上ようがい」の姿

中世村上城=本庄城の姿を記した貴重な資料。この絵図自体も国の重要文化財である。(米沢市上杉博物館蔵「越後国瀬波郡絵図」)

1 2 3 4 5