明治以降

戊辰戦争の動乱で藩論は二分
内藤家のもと、150年余り安定した時代が過ぎた。しかし、幕末の動乱は小藩村上をも否応無く巻き込んだ。「譜代」の立場上、村上藩は奥羽列藩同盟に加盟して中越戦線に派兵、与板方面で新政府軍と戦うが、藩内の意見は必ずしも統一されたわけではなかった。家中では親幕府派と新政府派が、次第に対立を深めていたのである。(※1)
このような事態を収拾すべく、それまで江戸の藩邸に詰めていた若き藩主・信民は、なんとか藩論を恭順でまとめようと帰城する。しかし、藩主の説得を受けても家臣たちは一向にまとまる気配を見せず、ついに信民は心労のあまり自害してしまう。(※2)
これにより、村上藩は組織的な統制を喪失。藩士たちは己の信ずるところに従って、バラバラに事態に対処せざるを得なくなってしまった。
(※1)
この対立は戊辰戦争の終結後まで尾を引き、1869年(明治2年)には、恭順派の中心人物と目された家老・江坂与兵衛が暗殺されている。鳥居三十郎一人に戦争責任を負わせたことに対する、抗戦派藩士の報復と言われている。
(※2)
「村上市史」による。「新潟県史」では病死とする。