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明治以降

村上城の歴史(明治以降)

戊辰戦争の動乱で藩論は二分

内藤家のもと、150年余り安定した時代が過ぎた。しかし、幕末の動乱は小藩村上をも否応無く巻き込んだ。「譜代」の立場上、村上藩は奥羽列藩同盟に加盟して中越戦線に派兵、与板方面で新政府軍と戦うが、藩内の意見は必ずしも統一されたわけではなかった。家中では親幕府派と新政府派が、次第に対立を深めていたのである。(※1)

このような事態を収拾すべく、それまで江戸の藩邸に詰めていた若き藩主・信民は、なんとか藩論を恭順でまとめようと帰城する。しかし、藩主の説得を受けても家臣たちは一向にまとまる気配を見せず、ついに信民は心労のあまり自害してしまう。(※2)

これにより、村上藩は組織的な統制を喪失。藩士たちは己の信ずるところに従って、バラバラに事態に対処せざるを得なくなってしまった。


(※1)

この対立は戊辰戦争の終結後まで尾を引き、1869年(明治2年)には、恭順派の中心人物と目された家老・江坂与兵衛が暗殺されている。鳥居三十郎一人に戦争責任を負わせたことに対する、抗戦派藩士の報復と言われている。


(※2)

「村上市史」による。「新潟県史」では病死とする。

明治維新に伴い破却された城郭建築

新政府軍が城下に迫ってくると、恭順派の藩士たちは次々と城下を退去していった。これに対し、家老・鳥居三十郎を中心とする抗戦派藩士は約200名。篭城が不可能であることを悟ると、山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。庄内藩兵と合流した上で、新政府軍と羽越国境で交戦した。地元では「城下を戦火から救うための脱出」と語り継がれているが、実際にはそれほど組織だった撤退ではなかったとする藩士の手記なども残されており、真相は定かではない。一方、村上に無血入場した新政府軍は、恭順派の藩士を先頭に立てて、鳥居討伐に赴くのであった。(※)

戊辰戦争終結後、捕らえられた鳥居は新政府より城下の安泰寺で自刃を命じられる。最終局面で新政府軍に協力したこと、そして「反逆の首謀者」の責を一身に負った鳥居の犠牲により、村上藩は取り潰しを免れた。

明治3年12月25日、新たに成立した「村上県(後に新潟県に合併)」知事となった内藤信美は、焼け残っていた城郭の破却を政府に届出、受理される。山麓居館が焼けたとは言え、この時点まで城下諸門や石垣はほとんど無傷で残っていたというが、それも明治8年までの解体作業でことごとく破却・売却され、建設資材や燃料として転用されてしまった(※)。今でも市内には、このときに売り払われたと見られる石垣の一部が、民家の庭石や塀の礎石となって残っているようだ。

明治元年の村上城・大手門

■明治元年の大手門

建物の破却後も、石垣、土塁、堀跡などはしばらくの間残っていた。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)

(※)

明治15年、平林~村上間の道路にかかる橋を、城門の石垣を転用してことごとく石橋作りにしたとのことである。(『村上市史 通史編3』P.289)

高度成長期に失われた堀跡、土塁

建物は失われたものの、城下を囲郭していた土塁や堀はしばらくの間はその名残をとどめていた。しかし、昭和30年代以降の高度成長期、多くの堀跡はゴミ捨て場と化し、また、土塁も無用の長物として崩されていった。かつて総延長10キロに及んだ外郭の防御ラインも、今では下渡門跡と藤基神社裏手にわずかにその痕跡を残すのみである。

加えて、バブル期以降に急速に進んだのが、旧市街地の町割りの変化である。庄内町、長井町などには、馬出しや枡形がそのまま道路として残されていたが、区画整理と道路建設の前に失われていった。

また、市内各地で行われた道路の拡幅も町並みに大きく影響した。かつては軒を連ねて武者隠れを形成していた城下の通りは今、櫛の歯が抜けたような状態に陥っている。2000年代に入り、ようやく歴史的な景観に配慮した街づくりへの転換が模索されているが、失われた景観を取り戻すのは容易なことではない。今後の町づくりの大きな課題と言えよう。

そんな中にあって、臥牛山上の城郭主要部のみは歴然として残った。明治以降、旧藩士らで作る「村上城跡保存育英会」が長年城山の維持、管理に携わってきたが、昭和35年に県指定文化財、平成5年には国指定重要文化財となり、現在では行政主導の下、残存遺構の維持、管理が行われている。

武家屋敷・山口邸

■数少ない武家屋敷

城下に残る数少ない武家屋敷の一つ、山口邸。江戸時代の門が残る屋敷も今やここ一軒だけとなった

転用石材?

■転用石材らしき石積み

飯野門跡付近の民家にて。

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