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江戸中期

村上城の歴史(江戸中期)

15万石に加増され最盛期を迎える

村上城下の発展に尽力した直竒は、寛永16年(1639年)に家督を息子の直次に譲り隠居する。しかし、不幸なことに、直次は25歳の若さで亡くなり、急遽その跡を継いだ直次の息子、千助(のち直定)までが7歳という短命で亡くなってしまった。ここに村上の堀家は絶家となってしまい、以後、1662~1644年の幕府領、1644~1649年の本田忠義10万石と短期政権が続き、慶安2年(1649年)に姫路から移封されてきた松平直矩(まつだいら・なおのり)のもと、ようやく藩主が安定する。

松平のブランドネームが効いたのか、このとき、三条町(現三条市)周辺の「蒲原4万石」が加増され、村上藩は15万石の大藩となる。増えた家来の屋敷地をまかなうために城下町は拡大、町屋の増加も著しく、当時の村上町の人口は1万8千人に達していたという。これは平成の市街地人口に匹敵するばかりか、当時の新潟町の人口(約13400人:1680年)すら凌駕する(※1)。紛れもなく当時の村上は、越後有数の大都市であった。

最盛期の村上藩領

■15万石時代の村上藩領

紫色で塗りつぶした部分が最盛期の村上藩領。赤線で囲ったのが2017年現在の市域。(『村上市史通史編2 近世』143頁所収の図より作成)

天守の新造と相次ぐ城普請

広大な藩領に支えられた財力を背景に、松平氏は寛文3年(1663年)より、村上城のさらなる改築にとりかかる。この時の工事は、地ならしからやり直すほど大規模なもので、堀氏の建てた門や櫓の多くが新築されたと思われる(※2)。中でも、天守の新造は工事の目玉であり、その外観は唐破風を備えた華美なものに一新されたという。また、城郭の修築にとどまらず、この時期には山麓居館の拡大や、居館北側の岩手郭への新御殿造営など、派手な普請が相次いだ。

しかし、このバブリーな建築ラッシュに沸いたのもつかの間、寛文7年(1667年)、本丸の他の櫓も道連れに、天守は落雷で焼失してしまう。流石にこれに懲りたのか、以後、天守櫓が再建されることはなかった。

(※1)

村上市『越後村上城下町 伝統的建造物群保存対策調査報告書』15頁より。詳しくは「大都市だった村上城下」を。

(※2)

この時の工事内容については「堀氏時代の村上城」で考察してみました。

5万石に減封後、内藤氏のもとで安定期

松平氏の後、村上城には同じく姫路より榊原政倫が15万石で入り、政倫、勝乗の2代にわたって宝永元年(1704年)まで在城する。しかし、その後に入った本田忠孝が後継を定める間もなく早世したため、村上藩の石高は従来の1/3に過ぎない5万石まで一気に減封される。

多数の家来に暇が出された結果、城下町は空き地だらけになり、人口も1万人を割るところまで激減した(※)。また、その後に入った松平輝貞(1704~1717)、間部詮房(1717-19)も短期政権だった上に、経済規模はそれぞれ7.2万石と5万石。さらにこの間は、洪水や落雷などの天災、百姓一揆などの社会不安が相次いだ時期であった。外郭土塁上の塀や櫓は逐次失われ、火災で焼けた門の再建なども断念されるようになっていった。10万石→15万石と拡張を続けてきた城を、5万石の経済規模では維持しきれなかったのである。

そんな状況がようやく安定したのは、享保5年(1720年)の内藤家の入封以降のことである。内藤氏は三河以来の譜代の家で、石高こそ5万石であったが、幕府の信頼は厚く、大阪城代(弌信)、京都所司代(信敦・信親)、老中(信親)など要職に就くことも度々であった。また、小藩の財政を潤すべく、堆朱工芸や鮭の増産が図られ、以後の地場産業の基礎となっていった。

城郭の保全においては、焼失した建物などの再建はままならなかったものの、土塁の草刈りや桝形の清掃、「堀底さらい」などが定期的に行われていたことが記録上から確認できる。傷んだ建物の修築なども、割とこまめに行われていたようだ。

正保の城絵図

■明治元年の絵図

紫で塗りつぶした部分は、かつては侍町であった部分。江戸後期には荒地や茶畑と化していた。(「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」村上市所蔵)

(※)

江戸期を通じた村上城下の人口変遷については「大都市だった? 村上城下」を参照のこと。

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