ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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本丸360度ビュー

建物の接続状況に注目

隅櫓群の頁で解説した通り、村上城の本丸には「正保の城絵図」(1644年)の段階で、天守以外に5棟の二重櫓が上げられていた。その後、1663年に松平氏による大規模改築が行われるが、建物配置はほぼ旧規を踏襲したとみられる。村上市「史跡村上城跡保存整備計画 資料編」(1998)の復元案は、この段階を想定したものであり、本データの建物配置も概ねこれに則って作成した。

隅櫓群復元」の頁でも触れたが、一見してわかるのは、城の規模に不釣合いな(?)建物の充実ぶりである。特に、塁線のほぼ全周を塀ではなく「多聞櫓」で囲むスタイルは、主として大城郭、しかも関ケ原~大阪の陣までに流行した縄張りである。天候に左右されずに火縄銃の火力を発揮できるメリットがあるが、建物の維持管理の負担はその分増す。地方の中小規模の城郭には、ちょっと贅沢な構造である。

塁線・動線の屈曲にも注目

本丸に関してもうひとつ注目したいのは、随所に見られる横矢を意図した屈曲である。山城ということもあり、村上城の塁線は割と自然地形に素直な箇所が多いのだが、本丸に限って言えば、妙に人工的な張り出しが随所に見られる。いわゆる「横矢の張り出し」といわれる軍学上の工夫だが、これにより、塁線にとりつく敵に2正面ら十字砲火を浴びせることが可能となる。中でも天守に対しては2方向からの射線が通るようになっており、最後の防御拠点にふさわしい配慮がなされていたことがわかる。

さらに、本丸唯一の門である「冠木門」付近の構造にも一入のものがある。門を2つ重ねた桝形門としているのは勿論だが、城内動線は門の前後で二度の180度ターンを強いる構造となっている。門の前、さらには突破された後までも考慮した設計であり、これもまた、最後の防御拠点ならではの構造といえよう。

なお、このような景観が実際に見られたのは、1663-1667年のわずか4年間に限られる。松平直矩による修築が完了したのもつかの間、天守への落雷を火元に本丸の建物は残らず焼失したのであった。多聞櫓で建物間を接続したことが、皮肉にも延焼を招いてしまったのだった。

(初版:2018.05.07)