大手門(追手門)復元
■DATA
建築:1620年頃
破却:1875年
規模:3間半×12間半
2間半×4間(御多門)
2間半×6間(御番所)
建築:1620年頃
破却:1875年
規模:3間半×12間半
2間半×4間(御多門)
2間半×6間(御番所)
別名「追手門」とも呼ばれた大手門。各種絵図から、右折れの枡形を備えていたことが判明するほか、正徳元年(1711年)の実測記録「村上御城廓」により、幅12間に奥行き3間半という具体的な規模についても判明している。これは幕府普請の大城郭に次ぐもので(※)、いわゆる「大大名」クラスの居城でなければ、なかなかお目にかかれない規模である。10万石や15万石の経済規模があった江戸初期はともかくとして、5万石に縮小した江戸中期以降は、これほどの大建築を維持するのにさぞや骨が折れたことであろう。
今は埋め立てられてしまった三ノ丸の堀については、1644年の「正保の城絵図」に幅7間に深さ3間(北側の数値。南側は2間)との注記、正徳年間の実測記録「村上御城郭」に幅6間との記録が残る。これらの防御施設は一種の軍機扱いになっていたのか、堀を渡る箇所には塀が設けられ、直接堀を覗けないようになっていた。大手門の場合、左右それぞれ10間前後の塀が土橋上にめぐっていたとの記録が残る。
復元画像は、こうしたおおざっぱな想定を踏まえて制作したものである。石垣高は2間5尺(5.1m)との記録が残り、江戸期の標準的な町屋の2階軒(4.5m程度)よりも高かった。現在の大町裏のどこからが堀になっていたのか判然としないが、ここでは現在の鍵型十字路がそのまま大手門の枡形跡と仮定し、川村寿司と江戸庄の間あたりを堀際と想定した。
(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
現存建築では、金沢城石川門(13間×4間)、二条城東大手門(13間×3間)、丸亀城大手門(12間×3間)などが同等規模。これらを超える20間クラスの城門を持つのは、江戸城、大阪城、名古屋城といった幕府普請の超巨大城郭に限られる。
重要な防御拠点を担っただけあって、大手門の構造には他の門とは異なる特徴が一つある。それは、枡形が「右折れ」になっていることだ。
詳しくは右の図を見て欲しいが、右利きの兵士(日本人は圧倒的に右利きが多い)が右折れの枡形を攻めようとすると、自然と左手からの攻撃にさらされる。これに武器をもって対処するためには、わざわざ体をひねらなかればならならず、満足な衝力を発揮できない。一見、些細なことに思えるが、枡形を右折れに築くことには重要な意味があるわけで、他の城郭も多くの場合、右折れの桝形を築いている。
ところが、なぜか村上城では地形的な制約がない場所にある門までほとんど左折れで築かれている。数えてみると、城下15の門のうち、右折れの門は大手門、中ノ門、吉田門のわずか3つしかない。このような縄張りが行われた明確な理由はいまのところまったく不明である。。。
(初稿:2003.12.28/2稿:2006.06.15/3稿:2017.07.23/4稿:2018年10月25日)