七曲り道の登り口、「村上城保存育英会」の建物が建つあたりには、かつて一文字門と呼ばれた巨大な櫓門が聳えていた。山麓居館、そして山頂部への正式な入り口としての機能を持つ門で、堀直竒によって1620年前後に築かれたものが、幕末まで残存したと思われる。
城郭中枢部への正門という性格に鑑み、その規模・格式は村上城内で最高であった。事実、正徳年間の実測記録「村上御城廓」によれば、門櫓の大きさは13間半×3間4尺に達し、大手門の12間半×3間半をしのぐ。…というより、ヘタな大大名の城の大手門すら凌駕する規模であった。
今残っていたらさぞや壮観だったろうが、残念ながら北越戊辰戦争の際、藩兵自らによって火がかけられ消失した。
人が豆粒のごとく見えるが、実際、田舎城には似つかわしくない「超」巨大な門だった。。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
遺構としては、枡形東面の石垣の一部が、約30mに渡って残存する。南側半分ほどは、「村上城跡保存育英会」の建物が、それこそ門櫓状(!)に覆いかぶさっているが、建物裏の石垣を見たい旨を伝えれば、建物内部から見学させてもらえる。なお、現在の石垣高は平均3.2mほどであるが、「村上御城郭」には1丈4尺(約4.2m)との記録が残るので、上端部の数段は崩落しているようである。(※)
ちなみに、建物は戊辰戦争で焼失したものの、明治のはじめ頃までは焼け残った枡形石垣が、そのままの形で残っていたようだ。また、昭和の半ばまでは、門前方~居館周囲の空堀も比較的旧規をとどめた状態で残っていたそうである。せめてこれだけでも残っていれば、かつての威容もしのばれようが、今ではすっかり埋め立てられてしまった。今後の発掘調査の進展に期待したい。
(初稿:2005.11.22/最終更新:2017年07月23日)
石垣がメリ込んだような特異な構造…。なんと、1階の窓を空けると石垣があるのだ!
村上市教育委員会「史跡村上城跡石垣調査報告書Ⅰ」(2017/03)P.79
周辺には結構無造作に石材が転がっている。国指定史跡なんだから、もう少しなんとかならんか…。
かつての堀、石垣ラインを現況に重ねてみた。厳密な位置特定はまだされていない。発掘に期待。 (国土地理院「標準地図」を筆者加工)