乾櫓跡
■DATA
残存物:石垣
残存度:★★★
藪化度:★★
残存物:石垣
残存度:★★★
藪化度:★★
村上城の本丸周囲には、全周に渡って石垣作りの帯曲輪が築かれており、その四隅にはそれぞれ櫓が上げられていた。中でも帯曲輪南西隅に置かれた乾櫓は、天守台の直下に位置し、防備上重要な役割を担っていた。櫓跡からの眺望は極めて良好で、物見としての効果をかなり発揮したことが偲ばれる。
遺構の残存状況は必ずしもベストとは言いがたい。櫓台の石垣は、崩落防止ネットでなんとか支えられているが、周辺の石垣は急崖から直接石垣を立ち上げる構造に無理があったらしく、かなり崩落が進んでいる。現在確認できる石垣高は、天端部から2m程度となっているが、往時はもう少し高さがあったのではないかと思われる。
一方、櫓の礎石も現状では確認できない。遺構から櫓の規模を正確に推定できない点は残念である。
絵図・実測記録等から江戸中期~幕末には二階建てであったことが確実な乾櫓であるが、1640年代に成立した「正保の城絵図」により、もともとは「くの字」型の平櫓であったことが判明する(右参照)。二重櫓に改築された明確な年代は特定されていないが、松平直矩が1663年(寛文3年)に城の大改築を行った際、乾櫓も同時に改装されたと見るのが妥当であろう。これにより、村上城の櫓はほとんど二重櫓となり、本丸の防備も完成の域に達した。
しかし、工事完成からわずか4年後の1667年(寛文7年)、天守櫓、及び本丸の全ての櫓が、落雷による火災でことごとく焼け落ちてしまった。折角二階建てに改築したにも関わらず、乾櫓は守るべき対象を失ってしまったのである。
この状況下で乾櫓に回ってきたのは「代用天守」としての役割ではなかろうかと筆者は見る。山麓から見てよく目立つ位置に建つ上、二重櫓ということであれば、それなりの体面は保てたであろう。事実、明治元年に描かれた「明治元年辰ノ八月村上城下ノ図」(右参照)には、かなり大ぶりにその姿が描かれており、城下の住民がこの櫓をどう見ていたかを伺い知ることができる。
明治に至るまで、どうにか代用天守(?)としての役割を全うした乾櫓であるが、実は1763年(宝暦13年)に西の鯱に雷が落ちている。幸いこのときは軽微な損害にとどまったようだが、もしこの時に乾櫓も焼けていれば、それこそシャレにならなかったであろう。
(初稿:2004.02.06/2稿:2004.03.24/最終更新:2017年07月23日)
塁線に沿って「くの字」に曲がる平櫓として描かれている。[国立公文書館蔵]
他の櫓より大きめに描かれた乾櫓。(「明治元年辰ノ八月村上城下ノ図(模写)/『史跡村上城跡整備基本計画資料編』所収」))
下端部が斜面から直接立ち上がる構造のため、根石が安定しないらしい。崩落防止ネットが痛々しい。
天守とはこの近さ。本丸石垣は左手に見える土塁上に乗っているため、目測で7~8mほどの比高差がある。