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片町枡形跡

片町枡形跡
村上城 片町枡形跡 写真

■DATA

残存物:地割痕跡、堀跡水路
残存度:-
藪化度:-

街路、堀跡水路に残る痕跡

いわゆる「総廓型」の城下町であった村上城下は、ほぼその全周を堀と土塁の二重防衛線によって囲われていた。主要街道から城下への入り口には、街道を意図的に屈曲させた防御装置「桝形」が構えられており、中でも城下北面の防御の要となっていたのが片町枡形である。

寛永の城絵図に既に描かれていることから、築造は1620年前後の堀直竒による城普請の時点と考えられる。180度ターンを繰り返す凝った形状の外枡形であったが、明治初年に土塁や堀が崩されたため、明瞭な遺構は現存しない。もっとも、街路形状や堀跡水路はほぼそのままの形で痕跡をとどめているので、ちょっとした城オタであれば、かつてのテクニカルな構造を読み解くのは容易であろう。

なお、この枡形を語る上で欠かせないのが、寛文7年(1667年)に城下の鬼門鎮護として建てられた庚申堂の存在である。その名にちなみ、かつては枡形内の武家地は「庚申廓」とも呼ばれていたが、現在でも享保8年(1723年)築の仁王門、安政6年(1859年)築のお堂が現存する。

明治元年と現在の片町枡形跡

■枡形跡の新旧比較

明治元年の状況と現在の地図を比較してみると、ほとんどそのままの形で街路や水路が残っていることがわかる。(上:村上市「内藤侯治城明治元年村上地図」/下:国土地理院「地理院地図」に筆者加筆)

江戸末期には付近の堀に勝手に架橋されていた?

城下防衛の重要施設であるだけに、片町枡形の維持管理には定期的に城下町民が動員され「土塁御根草刈」やら「堀底藻草浚い」が行われていた。しかし、平和な時代が長く続くにつれ、次第に城下町民の防衛意識は低下していったらしい。当時の行政記録を読むと、堀にゴミを捨てるもの、土塁の草木を勝手に刈るもの、ついには、通行の便のため、勝手に付近の堀に橋をかけたり道をつけ始める者までいたことが伺われる。たとえば、「内藤家家中法度」享保7年正月9日の「覚」には以下のような記述が登場する。

「庚申廓惣堀江片町・久保田町、右両所之の町裏ヨリ堀之中 並 土居越、作人等往来之道筋相見江候、自今堅通路仕間敷候、尤、土居草刈取申間敷候~」

要は、堀を背にした久保多町や片町から、堀を越えて直接庚申廓に入る道がつけられていたということである。実は、堀を越えた先にあった武家地は、石高減少が顕著になった享保以降、かなりの面積が畑地に転じていた。町人地から出作に向かう者が相当いたため、農作業用のショートカットが、なし崩し的に作られていった…ということのようである。

(初稿:2019.02.25)


片町枡形CG図

■片町枡形CG図

180度ターンを繰り返すテクニカルな構造であるが、堀幅そのものは4~5間程度とそう広くはない。結果、江戸中後期には町民が勝手に架橋して藩から咎められる…といった事態も起きている。。。