現在の村上駅前一帯は、戦後、南線道路が整備されるまで茶畑や荒地となっていた。しかし、村上藩が15万石の最盛期を迎えていた松平氏~本多氏の時代(1663~1709)には、駒込町と称した武家地となっており、100石取り前後を中心とする中下級藩士の屋敷が立ち並んでいた。
実はこの界隈、城下町の建設当初から武家地だった訳ではない。1640年代の様子を描いた「正保の城絵図」には「深田」や「畑」と記されており、街区として整備されるのは松平氏が入封した1649年以降のことだ。当初10万石規模を持って設計された城下に15万石大名が入封→屋敷地が不足→急遽郭外に武家屋敷地を造成した…というわけだ。
当時の城下町絵図から推定される駒込町の範囲は、現在の田端町~山居町の一部を含む広大なものである(右図参照)。街区西側には、規模は判然としないものの、土塁と堀が巡らされていたようだ。街区は整然たるグリッド状を成し、まさに新興住宅地といった趣である。このあたりは、微地形に沿って街路を設定した、江戸初期の町割りとの設計思想の差を感じさせる。
1704年(宝永元年)の「村上城並府内図」から推定した駒込町の領域を朱色で示した。桜ケ丘高校から村上高校裏手に及ぶ範囲と推定される。
さて、このように折角整備された駒込町だが、本多家が世継断絶により5万石に減封されると、住む人もいなくなってしまう。続く松平家の時代には町人に払い下げ(実態としては限りなく藩による押し売りっぽい)られ、茶畑などに転用されていった。その後、昭和の高度成長期の駅前開発で大規模な区画整理が再度行われ、現在に至る。武家地として機能したのは1600年代後半~1700年代頭のわずか50年程度であった。
そうした経緯もあって、現在、当時の痕跡を感じられるものは皆無に近い。ただし、現在の妙に直線的な街路の一部は、高度成長期の駅前開発に伴うものではなく、当時の地割りを引きずったもののようである。1948年に米軍が撮影した航空写真には、広大な茶畑をグリッド状に区画する直線道路が確認できる。
(初稿:2007.08.19/2稿:2017.07.23/最終更新:2018年11月24日)
米軍が撮影した航空写真。茶畑をグリッド状に区切る、妙に整然とした地割痕跡が確認できる。現在の村上駅周辺の街路の一部は、これを踏襲したもののようだ。(出展:国土地理院ウェブサイト「地図・空中写真閲覧地図」より1948/03/19 米軍撮影写真)