城下町の足軽屋敷地は、防衛上の観点から主として城下の辺縁部におかれるのが一般的であった。村上城下もその例に漏れず、幕末期には上片町、飯野、羽黒口など、城下の入り口にあたる場所に足軽屋敷が配されていた。各地域ごとに、それぞれ「護摩堂組」「新組」「石原組」「持筒組」などの組名がつけられており、今回紹介する「町組」は、旧町人町の小国町の背後を占めるエリアにあたる。妙法寺前の岡右門坂を登ってくる敵に備えた配置といえよう。
現地には、当時の地割や屋敷地の雰囲気を伝える生垣が比較的良好に残る。残念ながら建物遺構は残存しないが、往時は連棟の長屋形式の建物が建ち並んでいたと見て良いだろう。おそらく、お隣の城下町・新発田に残る足軽長屋(右図)のような建物が多くを占めたのではなかろうか。
村上のお隣の城下町、新発田に残る足軽屋敷。茅葺の連棟形式の長大な長屋で、内部は8世帯分に分かれている。
「軽き侍」などとも呼ばれ、士分の中でも相対的に低い地位に置かれた足軽は、今で言う「雇用調整」の対象になりやすく、藩の盛衰に伴ってその人数が大きく上下している。事実、屋敷地の広がりや位置は、江戸時代を通じて大きく変化した。右図は足軽屋敷地の変遷を、赤色で示したものである。
上の図は、村上藩が最盛期を迎えていた寛文~宝永の15万石時代のものである。当時の足軽・中間の戸数は約700ほどもあり、屋敷地は特に城下の北方に集中的に配置されていた。現在の村上第一中学校のあたりもその範囲に含まれる。
しかし宝永6年(1709年)、本多家が跡継ぎ擁立に失敗し5万石に減封されると、真っ先に足軽身分の者はリストラの対象となり、屋敷地は大幅に縮小。幕末期の内藤家時代の分布は下図のようになっている。全体的に面積が縮小されたのに加え、より「小分け」に郭内に配置されるようになったのが大きな変化だ。
(初稿:2008.09.06/最終更新:2017年07月23日)