中ノ門跡
■DATA
残存物:地割痕跡
残存度:-
藪化度:-
残存物:地割痕跡
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村上駅前から伸びる南線道路を、城山に向かってまっすぐ進むと、飯野門の300mほど先で直角カーブに突き当たる。ここはかつての城下、二ノ丸の南端にあたり、中ノ門(飯野中ノ門とも)と呼ばれた大型の内枡形門が構えられていた。
正徳元年(1711年)に記された『村上御城廓』により、門本体は3間1尺×10間半と、大手門や一文字門に次ぐ規模であったことが判明する。また、枡形は大手門をしのぐ13間四方の規模を有し、その入り口には幅2間の高麗門が構えられていた。
こうした巨大な桝形が築かれた背景には、すぐ近くに位置する羽黒門との機能連携があったと推察される。羽黒門は、中ノ門のすぐ手前に位置する三ノ丸総構えの門であるが、地形の制約上、その桝形は歪な三角形状を成し、兵を収容するに足る十分な面積が確保できていない。筆者としては、すぐ後ろに位置する中ノ門に、収容能力に優れた大型の桝形を作ることで、2つの門が連携して兵の出し入れを行うような想定があったのではないかと考えている。
ちなみに、多くの城絵図がいわゆる「典型的な櫓門」として中ノ門を描く中、「越後國村上城下絵図(享保2年間部家絵図)」のみは、どういうわけか櫓部が二重であるかのような描写となっている。おそらく誤記の類であろうが、なぜこのような描写になってしまったのか興味深いところである。
中ノ門が巨大な枡形を置いたのは、直近の羽黒門の支援を意図したからであろうか。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)
なぜかこの絵図のみ中ノ門を二重櫓門として描く。(新発田市立歴史図書館所蔵「越後國村上城下絵図」)
厳重な構えを誇った中ノ門であるが、明治の破却を待たず1752年(宝暦2年)に、付近の長屋からの飛び火を受けて炎上してしまう。その後、藩財政の窮乏のため再建されることはなく、明治元年に描かれた『村上城城門絵図』には、枡形の石垣のみが残った姿で描かれている。
門の直上を南線道路が通過したこともあり遺構は全く残らない。ただし、枡形内の通路の形は辛うじて小路となって残っているので、往時の枡形の規模を想像の中で補うことはなんとか可能である。地権者の方が杉生垣を植えて景観に配慮してくださっているのは有難いことである。
(初稿:2004.08.15/2稿:2017.07.23/最終更新:2020年02月08日)
厳しい藩財政ゆえ再建されなかった中ノ門。貧乏藩の悲哀を感じてしまう。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)