山頂城郭への正規の登城道となっているのが、通称「七曲がり道」と呼ばれるつづら折れの山道である。その起源は戦国期にさかのぼると見られ、慶長年間に描かれた瀬波郡絵図にもそれと思しき道筋を確認できる。山頂へ向かう他のルートがほとんど草木に埋没する中、この道のみが500年間に渡って営々と維持されたわけである。登城時になにやら感慨深いものを感じてしまうのは筆者のみではあるまい。
さて、そんな歴史を物語るかのように、この道のすぐ南側には戦国期のものと思われる竪堀が一本確認できる。かなり埋没が進んでいるため、本来の規模は不明であるが、他の竪堀の規模から推定すると、もともとは山頂~山麓近くにまで伸びていたのではないだろうか。
なお、江戸初期に描かれた「元和~寛永の城絵図」には、この竪堀とほぼ同じ位置に山腹を駆け上がる柵のようなものが描かれている。近世城郭で竪堀が使われるのはレアケースであるが、ひょっとすると、山頂の城郭主要部と山麓の居館を連結する「登り石垣」の機能を代替するものとして、戦国期の遺構が維持・再利用されていたのかもしれない。
(初稿:2004.04.23/2稿:2004.05.13/最終更新:2017年07月23日)
途中で土砂に埋もれているのか下端部は不明瞭。
>現在の竪堀位置に、柵列のようなものが見える。(国立公文書館所蔵)
上記のように、七曲がり道は単なる「登山道」という域を超え、それ自体が価値を有する歴史的遺構である。所々に残る石段や路頭した岩肌は、江戸期の山城の姿を現在に伝える貴重なものだ。しかし、土作りの道であるだけに雨水による浸食被害はひどく、場所によってはこの100年で本来の高さより70センチ以上も削られてしまっていた。
そこで、04年3月より、村上市では遺構保護を目的とした登山道整備工事に着手した。工法については文化財保護法の規定に従い、本来の地盤の上に砂利を敷き、さらにその上に土を突き固める形で新しい路面を作っている(右参照)。本来の「古道」の風情は多少変化してしまうが、
・遺構本体を傷つけていない
・浸食被害を止めることができる
・自然素材を使っているので景観の変化が少ない
…といった理由から、極めて良識的な工事と言っていいだろう。 右に示したのは、この工事が行われている途中の2004年4月の状況である。