1620年代に築かれたには珍しく、村上城下はその全周を堀と土塁によって囲郭された「総郭型」の城下町であった。そのため、主要道から城内への出入り口にはことごとく枡形が構えられており、中でも出羽街道から城下に入る瀬波口の枡形は、城下全体の正門とでも言うべき役割を担っていた。
正確な記録が残らないため、枡形そのものの規模は不明である。ただし、周囲の土塁と堀の規模については「正保の城絵図」に注記があり、それによると、枡形周囲の土塁高は、堀底から約3間、堀は幅5間の薬研堀であったらしい。
村上の外港・瀬波町から城下に至る出羽街道。城下町に入ったところで道幅が急激に狭まることに注目。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)
遺構の現況であるが、直上を国道345号が通過したため、地表面にその痕跡は残されていない。
唯一の痕跡らしきものは、かつての堀跡を利用したと思われる、通称「蛇川」と呼ばれるドブ川であるが、これについても、単にラインが重なるだけで、土手などは後世に新規に作り直されたものである。また、枡形を出た先の街道端には、戦前までは鬱蒼たる松並木が残っていたが、戦局の悪化に伴い「松根油」を採取するためことごとく伐採されてしまった。
そんな中、江戸中期の1758年(宝暦8年)、内藤信成公150回忌の供養のために建立された九品仏のみは、往時のまま街道沿いに残されている。九品仏というのは極楽浄土の9つの階級のことで、瀬波口枡形に設置されたものはそのうちの中品中生仏である。
(初稿:2004.10.28/2稿:2017.07.23)
明治元年の城下絵図を現在の地形図に重ねてみた。直角に曲がる現在の「蛇川」の流路は、堀跡をそのまま利用したことをうかがわせる。 (国土地理院「標準地図」を筆者加工)
城下の要所に配置された九品仏の一つ、中品中生仏。石材には村上城下から40キロほど離れた府屋の大崎山の石が使われている。