旧村上城下の北の外縁部にあたる塩町裏手には、正式名称「金平川」と称する幅3mほどの小さな水路が流れている。今でこそ三面コンクリ貼りの何の変哲もない排水路に見えるが、塩町裏川(下タ川、内川etc.とも)と称された江戸時代の川幅ははるかに広く、約2.5km離れた港町・瀬波と城下を繋ぐ、物資運搬用の水路として機能していた。三面川の水量に左右されずに物資を運ぶ経路として、位置づけられていたのだろう。
宝永2年(1705年)に記された「村上寺社旧例記」には、長さ8間×幅3尺の橋が3本架橋されていたことが記されている。両岸の法面を考慮に入れても、少なくとも12、3m前後の川幅があったはずだ。また、水深については「腰マデ浸リ」との記録も残ることから、小型船であれば十分航行できたことがうかがわれる。
戦後に河口部で機械排水が行われるようになり、区画整理も進んだため、現在その痕跡をたどるのは難しい。ただし、終戦直後に米軍が撮影した航空写真が残っており、これと明治元年の絵図を照合すると、ある程度の痕跡を読み取ることが可能である。新田開発のための「瀬替え」が江戸時代から度々行われてきた影響か、旧流路と思われる田んぼの形状はかなり複雑に分岐している。
三面川とほぼ並走し、港町=瀬波と城下を直結していた。
1947年に米軍が撮影した航空写真から、本来の川跡と思しき部分を筆者着色(出展:国土地理院ウェブサイト「地図・空中写真閲覧地図」より1948/03/19 米軍撮影写真)
下流では瀬波港に直結し、上流部では加賀町裏まで遡行できた往時の塩町裏川。まったくの自然河川というよりは、村上藩の江堰方により、堀ないしは運河に準じた取り扱いが行われていたようだ。
江戸初期の状況は不明であるが、中後期の状況については「村上町年行事所日記」からある程度伺うことができる。同書には、文政13年(1830年)に「御普請を以て(中略)通船自由相成様ニ」整備を行ったこと、天保2年(1831年)に、三面川本流から導水して水量を確保するため「加賀町後ロ大土居江(へ)、水門御開」いたことなどが記されている。
さらに、同年には村上町と瀬波港の間を行き来する荷物は、材木を除き三面川本流ではなくこちらの水路を使うように村上町へ指示が出されている(※)。物流路としていかにこの水路が重視されていたかを伺い知ることができよう。(もっとも、輸送の便…というよりは、船に課す役銭収入を狙ってのことであろうが)
(初稿:2018.07.21)
3DCGのほうでは幅12~15m程度の水路として制作しておいた。
※「当町ヨリ津出シ之物、並、瀬波湊ヨリ船積ニテ取入候物、以後大川通路御差止被成、内川可致通線旨被仰出候」(村上史楽会「村上町年行事所日記 12」P.85)
本稿では主に「水路」としての側面から塩町裏川を紹介したが、単純にそれだけの川だったとは思えないフシがある。実際は、「外堀」の機能を一部代替する、一定の軍事性があったのではないだろうか?
まず気になるのが、この川の位置そのものである。一般的に「総構型」の城下町として知られる村上城下であるが、肴町裏~塩町裏にかけては、これといった人工工作物が築かれていない。塩町裏川はまさにこの位置を塞ぐ形で流れており、格好の外堀の体を成している。ちなみに、幅9間という川幅は、他の総構えの堀よりもむしろ広いくらいである。防御性は十分あっただろう。
また、城絵図よって、この川を描いたり、描かなかったりと、イマイチ描写が安定しないことも気にかかる。塩町裏川を描くのは、家臣の屋敷割りや城下の管理用に家中で使った「内輪向け」の絵図が中心である。これに対し、幕府に提出した一種の公文書である「正保の城絵図」(右図)や「元和~寛永の城絵図」は、塩町裏川をなぜか描いていない。
幕府に対しては「軍事施設じゃない自然の小河川なので描きませんでした(キッパリ)」という体をとりつつ、ちゃっかり外堀「めいた」川を整備していた…というのは考えすぎであろうか?