硝煙蔵とはその名の通り、鉄砲や大砲に詰める火薬の類を貯蔵していた蔵である。火力戦が主体となった近世以降は、どこの城にも置かれていた施設で、村上城の場合は、城山東南裏手の祠「いなばさま」付近に位置していた(国道7号線沿いの商業施設「アテーナ」の裏あたり)。
城の中心部から遠く離れた選地では、いざという時に火薬を取りにいくのに大変そうだが、落雷etcによる誘爆から城や城下町を守るためと解釈すれば合点がいく。また、ここで思い出して欲しいのが、山頂部にも「鉄砲倉」(※)という類似の施設が存在することである。おそらく、平時には安全性を考慮して山麓の「硝煙蔵」を、有事には山頂部の「鉄砲倉」に、弾薬を貯蔵する算段だったのではなかろうか。
郭外に置かれていることに注目。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」に筆者加筆)
往時の様子は明治元年に描かれた『村上城城門絵図』により詳しく知ることができる。それによれば、海鼠壁の土蔵に簡単ながら番所(番小屋)を付帯させた施設であったらしく、番小屋の傍らには、鯉が泳ぐ池まであったようだ。残念ながら、建物の規模や火薬の貯蔵量については不明であるが、『間部家文書』等の記録をふまえると、常時2名程度の足軽が蔵番として詰めていたようだ。
現在は地形改変と藪化が進み、建物の詳細な位置等は判然としない。商業施設「アテーナ」の地内では、建物の建設に先立ち、1996年に発掘調査が行われたが、出土物は皆無であった。かつての池の水源だったと思しき湧水点「お城山清水」のみが、今も枯れずに残っている。
(初稿:2006.02.12/2稿:2017.07.23)
結構立派な蔵が建っていたようだ。まわりは柵で囲まれ、庭園らしきものもあったらしい。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
今も豊富に水が湧き出す「お城山清水」。簡単ながら注連縄が張ってあるので、どなたかが今でも管理されているのだろう。
江戸期からある小さな祠。「村上雑記」なる古文書によると、新発田重家の墓とあるが、それはあり得まい。江戸期とは位置が変わっているようだ。