鉄砲倉跡
■DATA
残存物:礎石列、土塁
残存度:★★
藪化度:★★
残存物:礎石列、土塁
残存度:★★
藪化度:★★
南北方向に曲輪を配した近世村上城にあって、唯一東西方向に地積を有するのが坂中門から東へ伸びる「鉄砲倉」と呼ばれる曲輪である。絵図、古記録等の検討から、江戸期にはその名の通り武器庫が置かれていたことが判明しているが、その縄張りを見る限り、単なる武器庫の収容区画というよりは、搦手防御の最重要拠点と位置づけられていたと思われる。
というのも、右図からもわかる通り、この曲輪は、田口中門~坂中門に至る搦手の登城ルートや、進入経路に使われそうな北側の谷筋に対し、格好の横矢をかけられる位置にあるからだ。実際、石垣こそ使われていないものの、曲輪周囲の切岸はかなり急峻に削り込まれており、いざというときには半独立陣地的な運用を想定していたと思われる。曲輪の入口に当たる坂中門の重防御ぶりは、まさにその証左であろう。
遺構としては、曲輪入り口を扼する櫓台状の大土塁と、武器庫の基壇と思われる石組みが残存している。石組みの一部は二列に渡って残存しており、おそらくこの部分が蔵の入口に相当したのであろう。見た目には極めて地味な遺構であるが、門や櫓といった防御施設以外の建物では、城内唯一の痕跡であり、その意味では一見の価値はある。
ただし、この石組みはほとんど整備の行き届いていない区域に位置しているため、夏場はほとんど藪に埋もれてしまう。きちんと確認したいのであれば、冬期に雑草が枯れてからの見学をお勧めする。
(初稿:2004.07.08/2稿:2017.07.23)
部分的ではあるが切石を並べた建物の基壇が残存する。
上に掲載した写真を見ても分かる通り、鉄砲倉入り口を扼する大土塁は、城内でも最大級の規模を有している。しかしこの土塁、単に曲輪の入り口を区画するにしてはあまりにも大仰に過ぎる上、防御上の意味づけもイマイチはっきりしない。
というわけで、他の可能性としてまず想定されるのは、武器庫の火薬が暴発した場合に備えた「爆風避け」としての機能である。早速、地形図や現地調査をもとに右の3D図を起こしてみたが、どうもその結果は思わしくないようだ。被害想定域を見ても分かる通り、直近に位置する坂中門すら、この土塁の陰にはなっていない。
縄張り上の意味も薄い、爆風よけでもないとしたら一体何を意図して築かれたのか? 中世期の何らかの遺構が、大した意味もなく残存しただけなのであろうか…? 未だにこの謎は解かれていない。