防衛都市として築かれた城下町において、広い敷地を有する寺社地は、有事の際に兵の駐屯地や防衛拠点として機能することが求められた。そのため、城下町の寺社は、総構えの入口や曲輪の突出部などに優先的に配置され、場合によっては一つの曲輪のような機能すら担う場合があった。というわけで、ここでは「城郭遺構」の観点から、村上城下の寺町を読み解いてみたい。
まず、その立地に着目してみたい。寺町が立地するのは、大手門のすぐ西隣の河岸段丘上であり、北側から城下に迫る敵を扼するのに絶好のポジションとなっている(下左図参照)。段丘によって4mほどの比高差を稼ぎ出している上、江戸期には段丘の下に小さな川が流れていたから、その姿はさながら、堀と土塁で防御された曲輪のように見えたであろう(右図参照)。
実際、城下町の建設当初は、寺町の外側に市街地はなかった(市街地が拡大するのは江戸中期以降)。文字通りそこは城下防衛の最前線だったのである。ひょっとすると段丘下の流れは、人工的に開削されたものかもしれない。
料亭「新多久」の裏手にて撮影。石垣は当時のものではないが、城郭を彷彿とされる立地であることは十分わかる。
周辺の街路形態にも着目したい。城の曲輪の出入り口は、敵兵の侵入を防ぐべく枡形構造となる場合が多いが、寺町周辺には枡形に見立てたと思われる食い違い小路が集中しているのである。直角カーブを2回繰り返す小町坂や安善小路などは、その典型例である。
一方、城外側からの入口にあたる道では、石垣と屈曲通路を併用し、見通しを利かなくする手法が目に付く。親不孝坂、妙法寺坂などがそれにあたり、段丘の下からでは、石垣に遮られて城内側の様子をうかがうことはできない。
このように、寺町界隈をよく見ると、城下防衛に注いだ先人の努力の跡が見えてくる。訪問の際は、寺社の伽藍に加え、城下町の防衛装置として町割りを鑑賞しても面白いだろう。
だが、例によってこの寺町にも大々的な道路の拡幅計画が決定済である。歴史的な景観を保全するためにも、関係各所にはなんとか再考していただきたいものである。
(初稿:2004.03.07/2稿:2017.07.23)
寺町界隈には鉤折れ道路や変形T字路が集中する。
段丘下から寺町へ上がってくる道は、屈曲を利用して見通しを利かなくしている。
左上に見える大手門とは至近距離である。周辺には変形T字路や鉤折れ道路が集中的に配される。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)
小さいながらも形の良い楼門である。市民の手による「黒塀プロジェクト」により往時の板張りの塀を取り戻した。
土蔵作りの珍しいお寺。本尊は金ピカの阿弥陀如来である。奥の細道の道中で、芭蕉と曽良が参拝したことでも知られている。