馬冷し場
■DATA
残存物:井戸、石垣
残存度:★★★★
藪化度:★★
残存物:井戸、石垣
残存度:★★★★
藪化度:★★
四ツ門から搦手方向に登城道を下ると、鉄砲蔵曲輪から一段下がった削平地に、石垣作りの大型の箱井戸が見えてくる。ここが通称「馬冷やし場」と呼ばれる、村上城最大の水の手である。
井戸の規模は4×5mほどあり、江戸中期頃には「千荷井」「千貫丸井」等と呼ばれていた。現在は野ざらしになっているが、元は覆屋がかかっており、正徳元年(1711年)に記された実測記録「村上御城廓」には「井ノ太サ弐間ニ二間四尺四方 戸ヒラ付厚板葺井ノ覆有」との記述が見られる。
地味な施設ではあるが、いざ籠城となった場合には文字通り城の死命を制する施設である。江戸中期頃までは周囲には塀がまわり、相応の防御が施されてあったようだ。
「馬冷し場」や「千荷井」と言った馬に関わる呼称、そして「正保の城絵図」に、「馬の通行可」を示す朱色の線が引いてあることから判断すると、少なくとも築造時には、山頂でも馬を運用することを想定していたらしい。実際、幕末には山頂の三ノ丸が調練場として使われているので、この井戸で馬を休ませたことは十分考え得る。
いずれも谷の出来はじめを利用した井戸である。
さて、臥牛山の中でもこの一帯はかなり湧水が多い一角である。付近にはもう一つの小型の井戸「弐ツ丸井」が現存するほか、井戸の直下の谷筋には「大沢」という沢が流れ出している。言い換えれば、2つの井戸は丁度谷のできはじめに掘られているわけで、特に箱井戸である「千荷井」のほうは、谷の上端部をせき止めるダムのような構造となっている。ひょっとすると、この曲輪自体が、谷の上端を人工的に埋め立てて作られたのかもしれない。
近世初頭の利水技術の一端が垣間見られるようで興味深いが、あまり手入れは行き届いていない。夏場は水が腐ってかなり凄惨な状態になっているので、冬場の見学が無難である。
その名の通り、本来は2つの井戸が並んでいたらしいが、今は1つしか現存しない。
あまり目立った活躍(?)のない当遺構であるが、防火用水として使われた記録が残る。城下・長井町の住民、山本又五郎の日記(=「山本氏文書」)には、以下のような記述が登場する。
「享保三年 戌五月廿六日 朝五ツ半時、雷火ニテ御城山鐘之屋舎(鐘櫓=御鐘門付近に存在した二重櫓)不残煙焼仕侯 (中略) 其ノ節 御城山千貫丸井くみほし申候、町中働之由御言ニ候、御ほうび被下候」(※)
城下町人も総出で、あの井戸を汲み干すほどの大量の水を撒いたわけだが、残念ながら鐘櫓の消失を食い止めることはできなかったようである。
(初稿:2005.06.27/2稿:2017.07.23/3稿:2018.02.06)
『村上市史 資料編3 近世2 町・村・戊辰戦争編』P.159
臥牛山中には、ここで紹介した2ヶ所の井戸のほか、中世期遺構群で紹介した東南麓にも井戸が1ヶ所残存している(中島井戸)。よって、現在の臥牛山には合計三ヶ所の井戸があるということになる。
ところが、どうやら近世初頭の段階では、井戸の数はさらに多かったようだ。右に示したのは1640年前後の状態を示した「正保の城絵図」の馬冷し場付近であるが、現存の2つに対し、さらにもう2つ井戸が確認される。
これらの井戸を探すべく、筆者も何度か斜面をウロついてはいるのだが、2005年6月の時点では残念ながら未発見である。急崖とヤブに立ち向かう勇気のある方は、ぜひ探してみてはいかがだろうか(笑)