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吉田門跡

吉田門跡
村上城 吉田門跡 写真

■DATA

残存物:地割痕跡
残存度:-
藪化度:-

往時の枡形とは逆に曲がる道路形態?

小石垣門脇から三の丸記念館裏手へ伸びる、通称「御蔵小路」の途中には、何やら意味ありげな直角カーブが2箇所ある。どうやらこれが、城下二ノ丸の北西端を固めていた吉田門の名残であるらしい。

「どうやら」と弱気に書いてしまったが、実はこの屈曲、往時の枡形の曲がり方とは逆なのである。右に明治元年の城下絵図を示したが、現状の道路形態が枡形のクランクとは逆向きであることが見て取れる。破却時に、わざわざクランク道路を新造したのだろうか…? イマイチ理解に苦しむところである。

門形態は、築造当初は櫓門だったらしい。だが、破損が進んだために、寛延2年(1749年)に櫓部を解体し、簡略化されたとの記録が残る(村上城主歴代譜「吉田門櫓破損して門ばかりに成る」)。城絵図の変遷を見てもその様子がうかがわれるわけだが、内藤村上藩の財政窮乏が主な原因であろう。

村上城・吉田門跡の周辺図

■現状ルートとの比較

なぜか枡形の屈曲とは逆につけられた現在の道路。(村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」)

小路に残る御蔵屋敷の風情

さて、吉田門を入った二ノ丸地内は、往時は「御蔵屋敷」と呼ばれる一角であった。上掲の絵図を見ても分かる通り、郭の三方が堀で囲まれた、半ば独立郭のような立地で、そこには長さ40間に達する巨大な米倉が建っていた。「村上城主歴代譜」によれば、この蔵は堀氏の時代に築かれたらしく、絵図にも一際巨大なその姿が描かれている。わざわざ三方を堀で囲んだ背景には、藩米を火災の延焼から守る目的もあったのだろう。

明治維新に伴い、門、堀、蔵等の建造物はすべて破却された。しかし、その記憶は「御蔵小路」という地名に引き継がれ今に至っている。杉生垣の続く閑静な通りに、かつての蔵屋敷の風情を感じるのも良いだろう。

なお、この通りについては、04年の市議会に拡幅陳情が出され「願意了承」されている。今後の行方が気になるところだ。

(初稿:2005.05.06/2稿:2017.07.23/3稿:2021.02.12)

村上城・米蔵跡を通る通称「御倉小路」

■東御蔵小路

杉生垣が続く落ち着いた小路。直進すると小石垣門跡に抜ける。