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享保7年越後國村上城絵図

「享保7年越後國村上城絵図」とは?

村上城専門サイト(?)を運営している手前、江戸期に描かれた村上城下絵図の類は一通り見てきたつもりだったのですが、先日「享保7年越後國村上城絵図」(村上市所蔵)なる未見の絵図の存在を知りました。その名の通り、享保7年(1722年)に内藤家が破損した石垣の修復を幕府に願い出た際に作成したもので、現物は村上市が所蔵しています。実物を郷土資料館で拝見させていただきましたので、いくつかポイントをまとめておきます。

享保7年越後國村上城絵図

一定の正確性が期待できる

まず、絵図の性格そのものについてです。一口に城絵図といっても、

1)家臣の屋敷割を決める際に使ったもの
2)城郭建築の維持管理に使ったもの
3)軍学研究に使ったもの

etc.と様々あるわけですが「享保7年越後國村上城絵図」は、上の区分で言うと2)に当たります。しかも、幕府に提出することを想定していますから、描写内容はある程度正確なものと見て良さそうです。他の絵図では割とアバウトに描かれている石垣と土塁の接合部や建物形状もしっかり描かれていますし、石垣損壊箇所には注記で細かいデータまで記されています。旧知の絵図では把握が難しかった、細部の構造を把握するのに役立ちそうです。

「城下絵図」ではなく「城絵図」である

この絵図が「城下絵図」ではなく「城絵図」であることも興味深いポイントです。徹底して囲郭化された村上城下は、どこまでが「城下」でどこからが「城内」なのかイマイチ判然としないところがありますが、本絵図に記載されたエリアを「城内」とすれば、現在の二之町、三之町はもとより、新町、堀方、杉原、石原あたりまで「城内」と認識されていたことになります。描写範囲を「城」に限定した絵図はおそらく本図のみ。その点でも貴重な資料ですね。

細部の注目ポイント

外郭土塁上に櫓:現在の藤基神社裏手の土塁上に3棟、小町裏手の土塁突出部に1棟、平櫓が描かれています。村上城下を描いた他の絵図には、これらを描いたものと描かないものが混在していますが、この描写の差が、実際の建物の改廃を反映したものなのか、時代によって「城郭建造物」とみなす基準が違ったことによるものなのかは、遺構が失われた今となっては判然としません。

岩手郭手前に桝形?:細かくて見にくいものの、山麓居館の刎橋門と岩手郭入口前に土塁と柵(?)で区画された桝形状空間が描かれています。山麓居館~岩手郭間の動線を確保するための構造と思われますが、こうした描写は他の城下絵図には一切見られず非常に気になります。(しかも、享保期には岩手郭は空き地になっていたはずなので、大掛かりな遮蔽装置を作る意図もよくわからん)

享保7年越後國村上城絵図より、三ノ丸南端の平櫓、岩手郭・山麓居館前の桝形空間?


このように、ざっと見ただけでも本図にはかなりの見どころがあるのですが、他の資料と合わせて考えないことには解釈が難しい箇所が多々あります。各種城絵図の描写をどう見るのか、また別の機会にきちんとまとめたいと思います。

(初版:2017.08.27)