文字通り、村上城最後の関門であった冠木門。礎石が良好に残ることから、建物の規模は比較的正確に推定することが可能だ。現地での検分から、冠木門本体の規模は間口4間弱に奥行き3間ほど、高麗門の規模は間口2間ほどと推定した。
なお、門の周囲には多聞、渡り櫓などが接続されており、それらが一体となって連続的な防御ラインを形成していた。各建物の桁行はおおよそ3間~2間半程度と思われる。
右に示したのは、上の画像再現にあたって参考にした村上市の復元案である。門櫓と左右の建物は別体として解釈されている。
[『お城山とその周辺整備基本計画』より抜粋]
さて、村上城の本丸は寛文7年の雷火により大きな被害を受けた。天守が焼失したほか、周囲の多聞櫓、隅櫓なども軒並み類焼したらしく、時代が下った絵図には、本丸内に建物は描かれていない。
そんな中、冠木門枡形の高麗門は唯一罹災を免れたようだ。享保年間の絵図にかろうじてその姿を認めることができる。現在の遺構を見ても、天守、渡り櫓の礎石や石垣に焼損の跡があるのに対し、高麗門の礎石にはそれが認められない。楼閣がことごとく焼け落ち、本丸がもぬけのからとなった後も、この門だけは取り払われずに存続したのだ。
もぬけのカラの本丸を防備する意味はほとんどなかったにもかかわらず、門が存続した背景には、本丸内が高度に象徴的な空間として、幕末までその意味を失わなかったことが伺われる。
(初稿:2003.11.21/2稿:2007.01.26/3稿:2017.07.23/最終更新:2018年10月25日)