マニアックな村上城ファン(?)には周知であろうが、村上城の天守は実は2度築かれている。初代天守は堀直竒によって、元和6年(1620年)前後に築かれたもの。二代目が、寛文3年(1663年)に松平直矩によって築かれたものだ。幕府に対しては、旧天守の老朽化に伴う再建として届け出たようだが、最高級の木造建築が、わずか40年で腐朽するとはどうも考えにくい。筆者としては老朽化に名を借りた積極的な「建て替え」ではないかと考えている。「譜代15万石の勢威を思い知れぇええ!」と若きナオノリ氏(当時26歳)が思ったからか、何らかの政治的な意図をもって、豊臣系大名=堀氏の天守を、徳川系意匠に改築したのではあるまいか?(※)
だが、せっかく建て替えたこの天守は、建築後わずか4年で、あっけなく炎上してしまう。原因は高所の天守の宿命ともいえる「落雷」である。さすがにこれに懲りたのか、以後、天守が再建されることはなかった。ここでは村上城最後の天守となった二代目天守のCG化を試みる。
現存する石垣や礎石の状況から、天守1階の平面規模は、南北5間×東西7間(ほぼ10メートル×14メートル)ほどの長方形だったと推定される。棟と軒の長さが2間も違うことから、望楼型でなければ建設は難しかっただろう。また、礎石配置からは、若干ではあるが左右非対称だったことも読み取れる。後述の文化財建造物保存技術協会の復元案も、城下のある西側寄りに、2・3階がオフセットされた構造だと推定している。建築誤差の範囲か微妙なところだが、意図的なものとすれば、本丸帯曲輪から見上げた際の視覚効果を意識したものと考えられる(帯曲輪から見上げた際に、完全な左右対称だと奥まった2・3Fが多聞櫓の陰になる)。
なお、平面規模がほぼ同大の現存建築として、弘前城や丸亀城、宇和島城天守の6間×5間などが挙げられる。いずれも正規の天守としては小型の部類である(ちなみに、お隣新発田城の御三階櫓も6間×5間半でほぼ同規模である)。標高135mの山頂に位置する村上城の場合、どのみち天守は目立つので、巨大な建物はもとより必要とされなかったのであろう。
細部の意匠はさておき、2・3階が西側に寄った構造だったらしい。
建物の外観を知る手がかりは1640年代に描かれた「正保の城絵図」しか存在しない。だが、この絵図に描かれているのは、建て替え前の初代天守である。肝心の二代目天守については、残念ながら絵画資料が存在しないのが現状である。ただし、松平大和守日記には、建築中に「からはふの儀」をしきりに気にしていた様子が記されているので、少なくともどこかに唐破風はあったのであろう。
…というわけで、復元的考察に足る資料は皆無に近いのだが、村上市「お城山とその周辺整備基本計画」(1992)には、断片的な資料をもとに文化財建造物保存技術協会が作図した復元案が示されている。同案によると、大入母屋を有する1階部分に、2,3階が望楼型で載る形式で、石垣も含めた高さは約20mとなっている。冒頭の合成画像は、主に同案を参考にしつつ、一部、筆者の独自考察を加えて作成してみた。現状、石垣上端部が崩落している分を補いつつの合成となるため、建物の見え隠れ関係はかなりアバウトである。
※合成写真の一部パーツを、村上市生涯学習課社会教育推進室よりご提供いただきました。この場にて改めてお礼申し上げます。
(初稿:2003.11.21/2稿:2004.04.29/3稿:2006.05.22/4稿:2017.07.23/5稿:2018.01.10/6稿:2018.10.25/最終更新:2020年01月01日)
見た目には結構古風なデザインである。唐破風がどこにも見当たらないのが気になるが(村上市都市計画課『お城山とその周辺整備計画』(1994)より)