ビジュアル再現 村上城 ~3DCGでよみがえる村上城~ ロゴ
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山麓居館復元

山麓居館復元
村上城の山麓居館(御殿)跡の写真
村上城の「山麓居館」(御殿)再現3DCG

■DATA

建築:1620年頃
破却:1869年(自焼)
規模:1438坪→924坪(筆者推定)

CG画像の精度はあくまで「イメージ図」程度であり、学術的に厳密なものではありません。詳しくはこちらをご参照下さい

江戸初期の特徴をよく示す平面構成

現在は児童公園や草ヤブになってしまった山麓居館(御殿)跡であるが、往時は書院造りの殿舎が立ち並ぶ藩政の中枢であった。「村上城城門絵図」が幕末時の様子を描いているが、建物はいずれも、入母屋造りの大型建築として描写されている。

建物の平面図に関しては、15万石時代の直後に描かれた「村上住居絵図」「村上城居城分間図」、および、5万石に縮小した内藤氏時代の状況を記す「内藤侯居城全図」の3枚が知られている。これらをもとに御殿の総面積を筆者が計算したところ、15万石時代で約1438坪、5万石時代でも約925坪との値を得た。10万石の大名御殿がおおむね1000坪前後であったことに照らすと、5万石時代においても相当背伸びした規模の御殿を維持していたことになる。

全体的に部屋割りが大きく、接客・謁見スペースが充実している点などは、格式の維持を優先した江戸初期の御殿の特徴をよく示す。以下は15万石時代の状況を想定した3D図である。

村上城御殿全景 3DCG図
明治元年の村上城・山麓居館(御殿)

■村上城城門絵図

数少ない絵画資料。大規模な建築物がひしめいている。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)

村上住居繪図

■村上住居繪図

15万石時代からほど近い間部氏在城時(1718-1720)に作成されたと見られる絵図(筆者私物)

越後村上城居城分間図

■越後村上城居城分間図(写し)

間部氏に続く、内藤氏時代初期の状況と見られる絵図(大瀧正輔氏蔵)

貧乏藩の割に派手だった??

上述のような部屋割りの特徴や、火災の記録がないことなどから考えると、主要な殿舎については江戸初期に建てられたものが幕末まで存続したと思われる。10~15万石の経済規模を背景に建てられただけに、後の5万石時代には相当維持に苦労したらしく、建築から100年ほど経った1700年代の記録には、「大雨で御殿の軒が腐れ落ちた」とか、「修復できそうもない建物は取り崩した」といった記述も見られる

復元画像に示したのは、御殿がまだきちんと維持されていた時代の大広間上段の間である。御殿の中で最も格式の高い部屋で、主として藩士の総登城や賓客の謁見などに使用されたと思われる。正面の一段高くなった「上段の間」は藩主の専用スペースで、家臣は手前の部屋までしか入れなかった。

内装関係の資料が残らないため、障壁画etcは同時代の建築物からの推定である。桃山時代の遺風を残した時代の建築だけに、それなりに派手な装飾だったのではなかろうか? 御殿の建造物の変遷や内装に関する詳しい考察は「村上城の謎」コーナーの御殿徹底研究を参照のこと。

(初稿:2005.02.21/2稿:2006.12.12/3稿:2017.07.23/4稿:2018.02.02/最終更新:2018年10月25日)

村上城・山麓居館(御殿)の平面を記した「内藤侯居城全圖」

■内藤侯居城全圖

縮小期の御殿平面はこの図から知ることができる。(村上城跡保存育英会所蔵)