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御殿徹底研究(1)

御殿の研究はマイナージャンル?

突然で恐縮だが、皆さんは城めぐりのどこに面白さを感じているだろうか? 歴史の舞台に身を置く感動を味わう人もいれば、城郭建築の美しさを鑑賞する人もいるだろう。城オタに片足を突っ込んだような人ならば、複雑な塁線の屈曲に、縄張りの妙を見出しているかもしれない。

しかし、こうした多種多様な城の楽しみ方がある中で、「御殿が好きだ」という人はごく少数なのではないだろうか? 現存例が極めて限られる上、ちまたでは「薄暗く、だだっ広い畳敷きの部屋の何が面白いのか?」「どこの城でも似たようなもの」という感覚が流布している。事実、わが村上城においても、御殿に関する研究はあまり進んでいないのが現状である。(※)

というわけで今回は、従来ほとんど論じられることのなかった村上城の御殿を各種資料から分析し、知られざる村上城の一面に迫ってみたい。

二条城御殿

■数少ない現存例二条城

城の御殿の現存例はほとんどないため、ある意味「二条城=城の御殿」というイメージはわりに強い。

(※)

ネット上で見られる先行研究としては、村上市郷土資料館資料

御殿の基本構造

さて、本題に入る前に、城の御殿とはどういう建造物なのかを簡単に解説しておきたい。御殿と聞くと、広い畳敷きの均質な空間がどこまでも続いているようなイメージがあるが、実際には、各部位が高度に機能分化し、それぞれが異なる役割を担っている。分類法にも様々あるようだが、ここではごく大雑把に、

1)謁見や接客などの儀礼を執り行う場である「表」
2)藩の政庁としての機能を有する「中奥」
3)藩主の私的な生活スペースである「奥」

…という3つのパートがあることを把握しておきたい。

それぞれのパートは複数の建物から構成されるのが一般的で、「表」部分は、玄関、大広間、大書院、小書院など、数十畳の部屋を複数有する大規模な建築群によって、「中奥」は、藩主御座所や役人部屋、家老詰所などによって、そして「奥」部分は座敷、居間、風呂などから構成されている。

小規模な城郭では役割が未分化であったり、殿舎が部分的に省かれるケースもあるが、これら3つのパートが、手前から奥へと向かって雁行するのが御殿の基本パターンである。(三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』至文堂,1999.09 参照)

御殿の構成図

正規の格式を有する村上城の御殿

では、以上のような原則に照らした場合、我らが村上城の御殿はどのように評価できるのであろうか?

以下は「村上住居絵図」(1718-1720年成立?)「越後村上城居城分間図」(1720-1747年成立?)を参考に再現した、最盛期(1663-1747年頃)の村上城御殿の3D図である。村上氏(9万石)→堀氏(10万石)→松平氏(15万石)と段階的に拡張が続いた結果、周囲を櫓や城門に囲われた「コの字」型の区画一杯に、檜皮葺(もしくは杮葺)の殿舎が密集するに至った様子が見て取れる。各建物を「表」「中奥」「奥」の3つのパートに色分けしてみたが、おおむね、殿舎配置の一般原則に従って、南から北に向かって順番に並んでいる。

なお、番所や炭小屋などの付属施設を除いた殿舎の総床面積は、筆者の計算によると約1438坪である。この面積は15万石クラスの大名御殿として、ほぼ標準的な規模に相当する。(※)江戸後期になると、御殿の規模は次第に縮小していくが、それについては後述する。

村上城御殿 3DCG
村上住居繪図

■村上住居繪図

15万石時代からほど近い間部氏在城時(1717-1720)に作成されたと見られる絵図。5万石に対して明らかに過大な規模である。(筆者私物)

越後村上城居城分間図

■越後村上城居城分間図(写し)

間部氏時代とほぼ同様の建築物が描かれている。正確な制作年は不明だが、筆者としては1720-1747年の状況と考えている。(大瀧正輔氏蔵)

(※)

15万石大名の居城である川越城(埼玉県川越市)、鶴ケ岡城(山形県鶴岡市)の御殿などがほぼ同規模である。

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