国元における村上城主の正式な居所は、城山麓の山麓居館であるが、城下北東端に位置する現在の仲間町付近には、「相川御茶屋」と称する下屋敷的な別邸が置かれていた。その名の通り、城主のプライベートな遊興・休息を主目的とした施設であり、歴代藩主は足しげくここを訪れていたようである。
成立年代は古く、1620年代の堀直竒の城普請時と思われる。しかし、防御施設ではなかったためか、絵図によっては存在そのものが描かれなかったり、あるいは描かれたとしても、ごく概念的な描写にとどまるケースが多く、詳細は長らく不明であった。ところが、2013年に郷土史家の大場喜代司氏らのグループが高田図書館が所蔵する榊原家の古文書の中から「越後村上藍川御茶屋絵図」を発見。近年になってようやく詳細な内部構造が明らかになった。
以下は同図を参考に起こした3DCGである。ほぼ正方形の200m四方の敷地に、泉池、築山、茶室、的場から田んぼ(!)に至るまで、さまざな施設が配されていたことがわかる。単に見て楽しむ庭園というよりは、馬に乗ったり、弓を引いたりと、割と体を動かす設備が充実していたようで、時には相撲の上覧なども行われていたようである(※)。また、主要建物はあえて茅葺や板葺きの鄙びた作りとし、敷地境を囲うのも竹垣や柴垣であったようだ。こうした特徴からも、格式ばった山麓居館とは対照的に、肩肘張らずに過ごせるプライベートスペースを指向していたことがうかがえる。
施設の性格上、城絵図における描写は極めて概念的なものにとどまる。この絵図でも四角カコミに「御茶屋」と記すのみ(新発田市立歴史図書館所蔵「越後国村上城下絵図(享保2年間部家絵図)」)
※文化8年8月18日の江見啓斎翁日誌に「仲間町御茶屋において殿様相撲御上覧有之候也」とある(村上古文書刊行会『江見啓斎翁日誌(上)』p.144)
これだけの大庭園だったにも関わらず、明治の破却・売却が徹底していたためか、地表面にその痕跡はほとんど残されていない。敷地のほとんどは仲間町集落の宅地や畑となり、かつての池跡低地は圃場整備された田圃へと姿を変えている。
そんな中、唯一明瞭に残っているのが、トップ写真に掲げた稲荷神社裏手の築山(=造園に際して築かれた人工の山)である。高さ5-6mほどの小山状の土盛りが現在でも確認できるが、本来の高さはもう少しあったであろう。かつてはこの上に、4間四方の茶屋が載っていたが、後世の改変のため、礎石位置や本来の地形は判然としなくなっている。
なお、周囲の仲間町集落の道路形態は、旧城下絵図と対照する限り、おおむね旧藩時代を踏襲しているようである。直線的な地割や、敷地境の所々に見られる柏尾石(城の石垣と同じ石材)を用いた石積みに、ここがかつて城下の外縁であり、文字通りの「仲間町」であったことが偲ばれる。
(初稿:2019年12月4日/最終更新:2019年12月4日)
現在の地図に推定範囲を重ねてみた。築山や座敷棟があったエリアは宅地や畑に、池や的場があった段丘下のエリアは田圃になっている(国土地理院「地理院地図」に筆者加筆)
直線的な街路、敷地境に植えられた生垣など、城下の武家屋敷街に通じる印象の家並み。落ち着いた景観が続く。
敷地境などに、城の石垣に使われているのと同じ、年季の入った柏尾石が散見される。関連施設の石材を転用したものか??
集落裏の段丘下には、細い水路が流れている。泉池の痕跡のような気もするが、かつては段丘の段差を利用した滝までかかっていたらしい。