村上城の御殿は、現在「城山児童公園」となっている七曲道の登り口付近に位置していた。村上・堀・松平と石高の増大に伴って漸次拡大され、最盛期の15万石時代には、総面積1000坪を超える大建築にまで拡大したとみられる(※)。戊辰戦争時に藩士自らの手で焼き払われたのち、営林署や桜ケ丘高校の実習林として敷地は転用され、現在その痕跡は地上に残されていない。
藩主が起居する場所だけに、かなりの重防御が施されていたのもこの御殿の特徴である。周囲には堀と土塁がめぐらされ、その上には北から順に茅門、角櫓、刎橋門、二重櫓、月見櫓、三重櫓、一文字門と、数多くの建造物が建てられていた。
もっとも、いくら重防御を施したとはいっても、山頂の城郭本体と御殿が分離するこのような縄張りでは、満足な戦闘力は発揮できなかったであろう。また、「城郭中心部に御殿を収容する」という近世城郭のセオリーに照らしても、一種の欠陥縄張りでさえある。
しかし、中世期の山城を拡張して築かれた近世城郭にはこのような縄張りがしばしば見られる。村上城と比較的近い規模の城では、備中松山城や淡路洲本城、津和野城などが知られているが、いずれも中小藩の城であるのは興味深い。
戊辰戦争時に藩士の手で焼き払われたこともあり、遺構と呼べるものはほとんど残存しない。かつて御殿を囲郭していた堀や石垣、土塁も昭和の半ばには崩され、一文字門跡の石垣のみが部分的に残されている。江戸期の絵図には、泉水の流れる大名庭園も描かれているのだが、それすらも草原と化してしまった。ある意味、山頂部以上に「荒城の月」を感じさせる遺構である。なお、城下寺町の長法寺の本堂の一部に、居館を解体・再建した際の部材が用いられているとの言い伝えもあるが真偽は不明である。(※)
そんな中、唯一現在まで生き延びている関連施設が、居館周囲の堀に導水するために掘られた水路「御用水」である。実は、居館周囲の堀は平時は空堀であり、有事の際のみ水堀となる仕掛けであったと伝えられる。御用水は普段は庭園の泉水に水を導き、有事の時は堀の水を満たす重要な水路であった。現在はほとんどが暗渠化され、地上部も3面コンクリ張りとなっているが、その流れは「三面川左岸用水路」と名を変え、付近の田畑を潤している。臥牛山北麓に沿うように流れているので、もし時間があったならぜひ確認して欲しい。
(初稿:2004.01.19/2稿:2017.07.23/最終更新:2018年01月22日)