大手門跡から旧三ノ丸を抜け、道なりに城郭中心部に向かうと、簡易裁判所を過ぎた辺りで、道は微妙なカーブを描く坂道にさしかかる。このカーブが、城下二ノ丸の正面口を扼した小石垣門の枡形跡である。
遺構の残存状況は残念ながら皆無と言ってよい。二ノ丸と三ノ丸をつなぐ主要な交通路であったためか、明治期の破却が徹底していたようだ。唯一痕跡の可能性を持つのは、周囲の民家の塀の基壇や外周に見られる転用石材(?)らしき石積みであるが、決定打には欠ける。地権者の方が気を利かせているのか、どことなく城郭の石垣を彷彿とさせる積み方になっている。
なお、2000年代初頭には、周辺の民家の敷地内に、積まれないままゴロゴロしている石材が散見されたのだが、現在は片づけられたらしく確認不能である。
さて、跡地が坂道であることからもわかる通り、小石垣門の周辺では現在でも、旧二ノ丸と三ノ丸の間におよそ3m程度の高低差を確認できる。堀と土塁がめぐっていた江戸時代には、この段差は一層大きく、掘底から土塁上端まで現在の倍以上の比高差があったと推定される。よって、往時は三ノ丸側から二ノ丸内を見透かすことは不可能だったであろう。防衛上の意味はもちろん、家臣の身分差を土地の高低差によって視覚的に示すことが目的だったと思われる。
なお、1980年、現在三ノ町に位置する村上郷土資料館の建設に伴う発掘調査で、二ノ丸の堀跡が検出されている。それによれば、堀幅は約11~14m。堆積物の分析から、空堀であったことが判明している。近世城郭の標準堀幅が約30mであるのに比して、かなり幅が狭いように感じられるが、これは村上城外郭の堀全般に共通する特徴である。「幅の狭さを深さで補った」と考えられなくもないが、なお決定打に欠ける感は否めない。
(初稿:2004.02.28/最終更新:2017年07月23日)
大手筋から続くルートだけに、巨大な枡形門が組まれていた。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)