村上城の表玄関「大手門」は、別名「追手門」とも言い、現在の大町通りの裏手、市役所駐車場角の変形十字路のあたりに位置していた。外郭防衛の要を担う門だけに、その規模は破格のもので、正徳元年(1711年)の実測記録「村上御城郭」によれば、櫓部は12間半×3間半であったとの記録が残る。本来は右図のような大型の櫓門が建っていた。
また、防御性の高さは周辺の街区にもおよんでいた。この門を入った内側(現在の市役所のあたり)には大身の家老屋敷が江戸期を通じて配され、道路沿いには長屋や塀が連なっていたようである。村上の武家屋敷の大半は、敷地境を杉生垣としていたので、この付近はかなり異質な景観だったはずだ。明治の破却で完全に破壊されたため、建物はもちろんのこと、石垣の類も地表面には残存しない。
遺構のかつての姿を偲ばせるものは、最近キレイなものに建て替えられた教育委員会の案内板のみである。かつての姿の復元画像は「大手門復元」をどうぞ!
彩色を見ると板葺きだった?(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
門の遺構そのものは失われてしまったものの、大町から続く大手道は変形十字路となっており、現在でも一度クランク状に折れてから城山方向に向かっている。かつての枡形の痕跡が、道路形態に残ったものであろう。
また、周囲には、大手門に使用されていたと思しき石材が、塀の基壇などとして再利用されているように見受けられる。それらの石材が正規の払い下げを受けたものか、どさくさにまぎれた持ち出しによるものかははっきりしない。
このように、「遺構」としては極めて微妙な状況ではあるのだが、村上市の2017年度予算において「歴史遺構顕在化調査事業」が計上され、門跡の本格的な発掘がおこなわれるようである。根石1列でもいいので検出されると良いのだが。。。
(初稿:2003.12.28/最終更新:2017年07月23日)
村上小学校外周の一部。積み直されてはいるものの、大手門の石材を利用したものっぽい。