城山北側を囲郭していた新町曲輪。その東北隅に位置していたのが耕林寺門である。明治元年に描かれた「村上城城門絵図」および、1711年(正徳元年)の実測記録である「村上御城廓」 により、往時は2間半×4間の櫓門が構えられていたことが判明する。規模、構造ともに新町曲輪に設けられた他の門(秋葉門、青木門)とほぼ同一であり、建物を規格化して工事を急いだことが推察される。
さて、現況であるが、国道7号線が直上を通過したために、地上部にその痕跡は一切残されていない。周辺では幾度か宅地造成等に伴う発掘調査が行われているが、門に関わる遺構は検出されていないようだ。
とは言え、周辺の街路や武家地としての景観そのものは良く残っているので、地図を片手にウロウロすれば、かつての門の姿を想像することはできるであろう。
定型化された櫓門である。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
すっかり失われてしまった耕林門の痕跡。しかし、ごく最近までかつて門に接続していた土塁跡が、一部ではあるが残存していた。長さ2~30メートルにわたって土盛りが残っており、2000年代前半までは割と明瞭に土塁の形状をとどめていただのが、2010年代には頂部が均され、ついに2019年初頭には完全に消失。跡地は駐車場となっている。
この背景には、当遺構が国の重要文化財の史跡指定区域に入っていかったことが挙げられる。実は、村上市のほうでは以前からこの土塁の存在は認識しており、平成5年に村上城跡が国指定史跡となった折、この遺構もあわせて史跡指定区域になるよう働きかけたのだが、私有地にあることなどもあり、指定区域には入らなかったそうである。
「私物」として残存している遺構をどのように扱うべきか? 改めて考えさせられる事例である。
(初稿:2005.01.17/2稿:2017.07.23/3稿:2019.05.14/最終更新:2019年11月30日)
2003年/2017年/2019年の状況。今は完全に均されて痕跡は残っていない。