現在は閑静な住宅地となっている新町、堀片、杉原一帯は、堀と土塁で囲郭された武家屋敷街「新町曲輪」の跡地である。往時、町の出入口には厳重な城門が設けられており、堀片地内の教員住宅わきに痕跡が残る青木門もそれらの門の一つであった。
明治元年に描かれた「村上城城門絵図」によると、門は枡形を備えた櫓門であり、その規模は「村上御城廓」により2間半×4間であったことが判明する。築造年代ははっきりしないが、1620年代の堀氏による築造と見て間違いないだろう。大阪の陣も終わり、総構えの築造を廃止する城下町が相次ぐ中、総構え部分にまで本格的な城門の建設を強行した堀氏の執念には恐れ入るばかりである。
もっとも、その作りを仔細に見ると、石垣を節約して土塁主体にしたり、枡形の一の門を省略するなど、主要部の門よりはやや簡略な作りが目立つ。また、規模や造作についても、秋葉門や耕林寺門など、新町曲輪の他の門とウリ二つである。建物を規格化して、工期の短縮を図ったものであろう。
元和年間の築造にも関わらず、外郭に用いられた門としてはかなり厳重。。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
さて、肝心の遺構であるが、現在残るのは枡形の名残らしきクランク状(?)の小路のみである。まさに家の隙間にあるのでなかなか見つけ難く、門跡を示す標柱が建っているのがせめてもの救いである。明治期の破却が徹底していたらしく、1991年に行われた発掘調査でも門跡に関わる遺構は検出されていない。周辺の土地区画にもその痕跡は判然としないようだ。
ただし、門の遺構は失われてしまったものの、周辺の武家地の風情自体は色濃く残っている。屋敷の区画に使われていた杉生垣や、袋小路、クランク道路などはちょっと注意すれば簡単に見つけることができるし、街路自体も江戸期の町割りをほぼ踏襲している。特に、城山へ直線的に進めないよう、南北方向に抜けられる路地が極端に少ないことは、この地域の一大特徴と言えるだろう。
(初稿:2005.01.05/最終更新:2017年07月23日)
こういう名もない小路も城下町の景観を形作る大切な要素。今後も残って欲しいものです。
現在の掘方の通りは江戸時代からのものであるが、城郭が維持されていた江戸期には、道の南側に沿って堀と土塁が延々と続いていた。「掘片」という地名自体、堀の片側にしか家並みがないことから付いた地名である。
さて、そんなお堀も今はすっかり単なる暗渠になってしまったが、明治の半ばまでは残されていた。そして、明治11年、このお堀端に作られたものこそ、日本初の鮭の人工孵化施設である「育卵場」である。当時はこの堀と三面川はつながっており、ここで孵化した鮭の稚魚は、水流の穏やかな堀の中で十分生育した後、海へと下ることができたのであった。
近年の鮭の回帰率の低下を、稚魚の生育環境の悪化に求める言説は多いが、堀の消滅にその一端があることは間違いあるまい。
なお、鮭漁の利益は失業した旧士族が生活をつなぐのに大いに役立った。戦乱ではついにその威力を発揮することのなかった村上城の堀が、維新後の士族の「生活防衛」に生かされたのはまさに歴史の悪戯か?