並門跡
■DATA
残存物:-
残存度:-
藪化度:★
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出櫓から続く石垣が本丸上段の石垣と合する箇所は、幅3~4mほどの狭窄部となっている。現在、石垣の崩落危険個所のため柵が設置されているのだが、かつてはこの位置に「並門」と呼ばれた門が存在した。
現地には標柱も立っておらず、一般的な城郭本でもほとんど触れられることのないマイナー遺構であるが、1711年の実測記録「村上御城廓」によれば、幅8尺の門本体と、左右に4尺ずつの塀が設けられていたことが記されている。
1644年の「正保の城絵図」には記載がなく、元禄期以降の城絵図に登場することを考えると、寛文年間の松平直矩の修築時に新たに築かれたと考えられる。黒門を突破した敵が、出櫓を背後から襲うのを防ぐのが役割と思われ、各絵図の描写を見る限り、簡易な高麗門or薬医門形式であったようだ。この箇所は廃城以降も度々石垣の崩落→積み直しが行われたと見られ、残念ながら礎石などの遺構は残存しない。
簡易な門だったためか特に名前を記さない絵図も多いが、本絵図では門名称が明記されている(筆者私物「村上城下絵図」)
このように、マイナーな遺構の並門であるが、実はちょっと古い一般向けの書籍などには、黒門の別名として「並び門」が紹介されているケースが度々見られる。
別の遺構と混同した初歩的な誤りであるが、おそらくその元凶(?)は、1980年に新人物往来社から刊行された『日本城郭体系』であろう。城郭研究書がまだマイナーだった当時、同書の影響力はかなりのものであったと思われるが、その村上城の頁には、現代の水準で見るとかなり不正確な縄張り図とともに、本来黒門があるべき位置に「並び門」と記されていたのである。これが一般向けの書籍に拡散した結果、誤った言説が拡大したものと考えられる。
(初稿:2023.05.14)
40年前の研究水準を知る上で興味深い(!)図である。とはいえ、その後の村上城研究の礎に本書がなったのは事実である(出典:新人物往来社「日本城郭大系 第7巻」1980)