黒門跡
■DATA
残存物:石垣、礎石、雁木、敷石状巨礫
残存度:★★★★
藪化度:★★
残存物:石垣、礎石、雁木、敷石状巨礫
残存度:★★★★
藪化度:★★
出櫓脇の細い城道を塞ぐ形に位置し、山頂部本丸と二ノ丸を画していたのが黒門である。「左右に並んだ門扉を2つ持つ」という特殊形状の城門であり、文献によっては「登城用と下城用の門扉を使い分けるため」と記すケースもしばしばみられる。しかし、軍事建築である城門がそこまで悠長な設計をするとは思えないし、現地の地形との整合性もうまく説明できない。各種記録を参考にすると、黒門の2つの扉は、それぞれが別の曲輪を封鎖する機能を持っていたと考えられる。
実は、村上城の二ノ丸は、高さの違う2つの曲輪が本丸へ向かって並走する構造になっている。一つは、御鐘門から出櫓を経て本丸に向かう「上通り道」。もう一つが東門から続く「下通り道」だ(右図参照)。どちらの曲輪も幅10mにも満たない細長い空間である。
また、正徳元年(1711年)に村上城の建物を実測した記録である「村上御城廓」によると、黒門は「上黒御門」と「下黒御門」に分けて記載されており、その間には、7尺(約2.1m)ほどの段差が存在したと記されている。さらに、「下黒御門」には5箇所の窓があったことが明記されているが、「上黒御門」には窓の記載がない。
以上から、黒門は、段差のある2つの曲輪を「またいで」同時に封鎖する特殊形状の城門だったと推定される。窓の記載の有無から判断すると、本丸に向かって右側の「上黒御門」は長屋門形式、左手の「下黒御門」は二階部分を有する櫓門形式だったのではあるまいか。「享保2年間部家絵図(1717年)」には、かなり変則的な形状をした櫓門としてその姿が描かれている。
細部は判然としないが、段差のある2つの曲輪をまたいで建つ特殊形状の門が描かれている(新発田市立歴史図書館所蔵)
特殊形状が推定される黒門であるが、明治の破却以降、その詳細はほとんど不明となっていた。というのも、「下黒御門」側壁の石垣がほとんど崩落、埋没してしまったために、礎石や付随する石段が確認不能になっていたからだ。そのため、構造以前に、そもそも正確な位置が不明…という状況が長らく続いていた。
ところが、2014年からはじまった石垣の解体・修理に伴う発掘調査で、ほぼ「村上御城廓」の記載値通りに門礎石・根固め石や、排水溝の遺構が崩落土の下から次々に検出されている(下図参照)。その位置は、従来「黒門跡」の標柱が立っていた位置よりかなり北寄りで、ほぼ出櫓直下に相当する。おそらく、門手前で足止めした敵を、出櫓からの側射で殲滅することを意図したのであろう。
柱を固定するためであろうか。妙な位置に切り欠きを施した礎石が出土。村上城の石垣は比較的加工が容易な流紋岩系の柏尾石で築かれているのだが、この礎石は硬度が高い花崗岩系の石。大重量の建造物ということで配慮したのだろうか?
2014-18年の発掘調査で、従来「黒門跡」の標柱が立っていた位置よりも数十メートル北寄りで礎石や石段を検出。ほぼ出櫓直下であり防御機能もそれと合わせて考察する必要があろう。(村上市教育委員会『史跡村上城跡現地説明会』当日配布資料 2018.10.14 P.6掲載の図に筆者加筆)
さらに、文献資料からは伺い知れなかった知見も今回の発掘では得られている。門手前の城道(下通り道)に、夥しい量の石材が敷かれているのが検出されたのだ! 路面の浸食防止を意図した一種の地業であるらしく、かつては石同士の隙間に土を詰めて、路面を固定していたらしい。路面を補強する地下構造として埋設してあったのか、石畳状に路頭していたのかは判然としないが、仮に路頭していたとすれば、往時は「ワイルドすぎる石敷き」といった景観が見られたはずだ。筆者の知る限り、これを描いた城絵図や文書記録は存在しない。
「正保の城絵図」段階から、何らかの門はあったようだが、現在残る遺構は松平氏による大規模改修時(1663年頃)のものと見られている、今後の発掘調査の進展で、より詳細な姿が明らかになってくるはずだ。
(初稿:2003.11.21/2稿:2003.12.06/3稿:2004.12.04/4稿:2017.07.23/5稿:2017.10.23/最終更新:2018年10月20日)
左上の人物と比較するとわかるが、いずれもかなり大ぶりな石材である。一見乱雑に見えるが、平面を揃えたような部分もあり、かつては石畳状であった可能性も?