かつての城下三ノ丸、北の正門というべきポジションにあったのが山辺里(さべり)門である。門本体に多門櫓や二重櫓が接続したテクニカルな城門で、その姿は各種城絵図のほか、明治元年に描かれた「村上城城門絵図」にうかがうことができる。
ただ、本図の櫓の接続状況は若干不自然であり、他の城絵図の描写等を踏まえて総合的に判断すると、復元村上城のコーナーで示したCG画像のような接続状況だったと推察される。
この門を語るうえで欠かせないのが、当時、この門の前に広がっていた「大堀」「広見の堀」と呼ばれる堀との位置関係である。これらの堀は、村上城総構えの中では最大の堀であり、正徳元年(1711年)の実測記録「村上御城郭」によると、最大幅31間。1643年の「正保の城絵図」の注記でも、ほぼ等しい32間の幅があったとされる。戦国期の様相を描いた「瀬波郡絵図」の段階でも、この場所は湿地帯らしき描写で描かれているので、もとからあった沼ないしは湿地を整備し、堀としたのであろう。
残っていれば壮観な眺めだっただろうが、残念ながらこの堀は戦後まもなく埋め立てられてしまい、現在は細い水路と一部に残る段差地形に辛うじてその痕跡を忍ぶのみである。「村上市歴史散歩」によると、明治初年までは、町のちょっとした釣りスポットにもなっていたらしく、今や絶滅してしまった「ニホンカワウソ」まで住んでいたそうである。
かなりテクニカルな構造であったことがうかがわれる。(「村上城城門絵図」平野邦広氏所蔵)
ごく細い水路と、堀跡の段差のみが残る。
さて、肝心の門本体の遺構については一切その類は地上に残されていない。唯一当時をうかがえるのは、門手前の土橋から桝形に至るまで、ほぼ旧規の通り残った道路痕跡であろう。明治元年の絵図と現状の地図を対比しておくが、見事にその形状が一致していることがわかる。大堀跡の地形から考えると。本来この箇所でも郭外側と3~4m程度の段差があったはずだが、地形の攪乱が進んだためか、現在は目立った高低差はなくなっている。
(初稿:2003.11.21/2稿:2017.07.23/最終更新:2017年09月21日)
門形状がそのまま道路形態となって残っていることがわかる。城下町特有のクランク道路は、こういったケースが多い。 (国土地理院「標準地図」/村上市所蔵「明治元年内藤候治城明治維新時代村上地図」を筆者加工)