坂中門跡
■DATA
残存物:石垣、礎石
残存度:★★★
藪化度:★★
残存物:石垣、礎石
残存度:★★★
藪化度:★★
現在、山頂への登城ルートは西側斜面の七曲がり道がメインとなっている。しかし、江戸期には城の搦手にあたる東側斜面にも登城ルートがあり、その途中には、数段の曲輪とそれに付随するいくつかの門が設けられていた。そうした遺構群の中で、最もよく旧状を残すのが坂中門跡である。
遺構としては、門の両袖を固めた石垣と、その裏手にある武者溜り状の削平地が残る。この付近は今でこそ草木に埋もれてしまったが、築城当初は「万貫丸」と呼ばれた大きな曲輪となっていたらしく、『元和~寛永の城絵図』(1620年ごろの状態を示したとされる絵図)にその姿が活写されている(右上)。もっとも、この曲輪がまともに維持されていたのは築城当初のごく短い期間であったようで、『正保の城絵図』の描かれた1640年代には、既に藪化してしまったらしい(右下)。
万貫丸はわずか20年足らずで藪と化したらしい…。[国立公文書館所蔵]
坂中門跡の遺構で特筆すべきは、門跡の石垣とセットで、かつての「番所」跡と思われる方形基壇が残っていることだ。番所とは、門の周辺などに設けられた、いわゆる「見張り小屋」のことであり、有名なところでは、江戸城の100人番所(右)などが知られている。おそらくこれを10分の1程度に縮小したような建物が、門に接して建てられていたのであろう。もっとも、坂中門のそれは、曲輪の塁線上に立つことから、外壁は塗篭(実質的な多聞櫓)だったようだ。目測の範囲では、その規模は2間×3間程度と推定される。
だが、番所の遺構が残るからといって、必ずしも24時間体制で人が詰めていたというわけではなさそうである。例えば、村上城よりもさらに高所に築かれた備中松山城の場合、現存する建物の中には、外から鍵がかけられるようになっているものもあるという。つまり、高所に築かれた山城の場合、ときには無人状態になることも珍しくなかったのだ。村上城の場合は、果たしてどうであったのであろうか?
(初稿:2003.12.22/最終更新:2017年07月23日)
幕府の本拠にふさわしく、おそろしく巨大な番所。長さは大京間で20間以上。なにも100人で見張らんでも…。
意外なほど長い石垣が積まれている。塁線上には塀がめぐっていたと推定される。
目測では2間×3間程度。かつては藩の役人が詰め、通行人を監視していたのであろう。
坂中門を入った一角には鉄砲倉が設けられ、土塁で区画されていた。