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本丸隅櫓跡

本丸隅櫓跡
村上城 本丸隅櫓跡 写真

■DATA

残存物:石垣
残存度:★★★★
藪化度:★

一際目を引く高石垣

黒門を抜け、目の前に見えてくるのが本丸塁腺の石垣である。他の曲輪の石垣高が4、5メートルにとどまるのに対し、本丸のみが、7、8メートルと、倍近い高さの石垣で築き上げている。最後の防御拠点にふさわしい重防御が施されたと評価していいだろう。その塁線上にはかつて、多数の隅櫓と多聞櫓が林立していた(右図参照)。

明治以降、何度か部分的な補修・積み直した行われた記録が残る(※)が、石垣の残存状況は四周ともおおむね良好である。帯曲輪に周囲を囲まれ、石垣基底部が安定していたことが幸いしたようだ。惜しむらくは、天守台北側の石垣上端部と、曲輪内部に面した渡り櫓の石垣が欠失している点であるが、礎石や櫓入口の石段が残存しているので、かつて存在した櫓群のおおよその平面規模と入口位置を推定することが可能である。これの建物は寛文7年(1667年)の天守炎上に伴い、ことごとく類焼してしまったようだ。

なお、一見保存状況良好に見える本丸石垣であるが、専門的な見地から見た場合、重度のはらみ出しや崩落の危険性が高い箇所が数多く確認されている。2017年にまとめられた『村上市埋蔵文化財調査報告書第8集 史跡村上城跡石垣調査報告書Ⅰ』では、全面的な解体修理の可能性にも言及しているが、そうなった場合、数十年単位の大事業になる可能性が高い。今後の行方が注目される。

正保の城絵図に描かれた村上城・本丸

■『正保の城絵図』の隅櫓群

天守含め6基の櫓を多聞櫓で接続。塀の使用は見られない。[国立公文書館所蔵]

(※)

村上市教育委員会『村上市埋蔵文化財調査報告書第8集 史跡村上城跡石垣調査報告書Ⅰ』(2017.03)による。

基本プランの成立は慶長期か?

この曲輪が最初に石積みとなったのは、慶長3年(1598年)の村上氏の入封以降と推定される。以降、堀氏、松平と城主が変わるたびに修築が加えられていったようだ。石垣の構築方法は「打ち込みハギ」と「野面積み」が混在したものとなっているかのように見えるが、各所に昭和に入ってからの詰み直し時の改変が混在しているので、現状の石垣の状況のみから、修築時期を判断するのは危険である。

ところで、一般的に村上城の整備は元和4年(1622年)以降、堀氏によって急激に進められたといわれている。しかし、本丸に限って言えば、基本プランの成立は村上氏時代にすでに完了していたのではあるまいか。

というのも、「正保の城絵図」を見てわかる通り、村上城の本丸は、城の規模に不釣合いなまでに過剰防御が施されている。多聞櫓で四周を囲むスタイルは、主として大城郭、しかも関ケ原~大阪の陣までに流行した縄張りである。(※)こうした縄張りが、堀直寄の入封した元和期以降の平和な時代に行われたとは考えにくく、基本プランは戦国の空気をまだ色濃く残した慶長期に完了していたと筆者は見ている。事実、堀氏入封前後の状態をを示した「元和~寛永の城絵図」(右図)には、既に現状遺構とほとんど同じ塁線を読み取れる。

(初稿:2003.11.21/2稿:2017.07.23)

「元和~寛永の城絵図」に描かれた村上城・本丸

■元和~寛永の城絵図

1615~1625年ころの状態を描いたとされる絵図。堀氏の入封前後の時期にあたるが、すでに本丸の基本構造が成立している。[国立公文書館所蔵]